読書録・2022年4月

先月の読書録の続きをつけたいと思う。今回は4月分。

中島隆博『中国哲学史』(中公新書)

哲学というとすぐに西欧・アメリカの思想になってしまうのが嫌で、日本語話者の自分は多少日本思想も追わなくもないが、それ以外になると全く追えていないのに危機感を覚えたのが、この本を手に取ったきっかけ。300余ページで諸子百家からはじめて現代まで駆け抜ける構成なのでかなり駆け足気味だが、この本を足掛かりにすると興味のある様々な時代の中国思想家を体系的に追いやすいかもと感じた。

 言語を作るとはいったいどういうことだろうか。それは、料理を作ったり、机を作ったりすることとはやや異なる。なぜなら、その成果物はすぐさま多くの人々に利用されるものだからである。それに対して、どんなにたくさんの料理や机を作っても、それを享受したり使用したりできる人は限られている。ところが、礼や言語は一挙に普遍化されうるものなのだ。そうであれば、聖人は単なる制作者というよりは、社会的なるものそれ自体だと言った方がよい。 (99ページ; 4月6日)

戦国時代の儒家である荀子が「いかに人間社会に規範が成立し得るか」を論じる際に、「『聖人』の作為から生じる礼を通して規範が成立する」と主張した文脈で、作為としての礼の特殊性に触れた一節。研究者の端くれとして、何か便利なプロダクトを作ってもその波及効果はプロダクトの利用者に限られてしまうのに対して、メタ的な新しい思考の枠組みを提供することでより深く社会に影響をもたらすような成果を生み出せるのではないか、と感じることがあった。自分の課題意識が特定個人の課題解決よりも、社会基盤に内在する根源的な問題に対するやり切れなさにあるように思うから。

 韓愈によれば、古文の独自さは、「自ら樹立して、受け継いだり従ったりしない」ことに求められる。したがって、それは過去の文(たとえば『詩経』)を特権化してそれを模倣することを許さない。自己発出こそが重要であり、言葉の新奇さが必要だからだ。文はすべからく奇でなければならない。  では、それでも「古」を参照しているのはなぜなのか。それは、過去の文がオリジナリティを有しているそのことを継承しようとしたからである。「〔古の聖賢の〕意を師として、辞を師としない」というのは、このことだ。自己発出に基づく独自性が古文の理念であるとすれば、それを支えるのが模倣(ミメーシス)なき模倣の歴史である。 (183ページ; 4月10日)

孟子から千年以上経った唐代の韓愈が、仏教によって駆逐されつつあった儒教を復興・継承する際の韓愈の中心的思想を敷衍した一節。儒家の説法を古文化して継承しようとするが、孟子の時代に紡がれる文は自ら内発的に出てきた言葉であり、先人の表面的な模倣ではない。その古文の精神のうち、内発的な「新規性」の側面だけを継承しようと韓愈は主張する。自分の読んだ本の引用にあやかろうという気持ちに対するアンチテーゼで歯がゆい。「新規性」の側面だけを継承しつつ独自の内容を模倣なしに自己発出しようとする精神は、まさに研究に通ずるものが大きい。「ミメーシスなき模倣」という標語が心地よく響く。

 誠は充実である。意は心から発出するものである。心から発出するものを充実し、必ず自己に満足し自己を欺かないようにする。(『大学章句』) (191ページ; 4月10日)

自己に正直であろうとする、直球で響きの良い諫言だ。これは朱熹『大学章句』からの引用である。韓愈を受けて宋代に儒教を中国的形而上学に昇華させた朱子学であるが、性善説のもとでいかに人の身体や欲望から生ずる悪を制御するかを論じている。礼による社会規範で外的に制御する一方、この一節は自己の本来性が悪によって失われる自己欺瞞を、自己の内部の「純粋化」によって乗り越えようとするものである。

 白永瑞が考えたように、いかにして帝国の脱中心化を行い、平等の東アジア運命共同体を構築するかが、東アジア各国がともに直面する氏名となっているのだ。国民国家の利益を至上とし、主権を何よりも優先する現代の帝国は、自身を唯一の主体とみなし、相手や周辺国家を客体と見なすという一種の覇道の論理である。それに対し、平和共存や相互承認する主体にいかにして学んでなるのかが、新天下主義の目標である。この目標は、東アジア運命共同体の構築において頼みとなる新たなコスモポリタニズムでもある。(『普遍的価値を求める——中国現代思想の新潮流』) (335ページ; 4月12日)

現代中国思想の潮流の一つである「普遍論争」、すなわち、西洋中心に展開されてきた哲学・形而上学・科学は真の意味で世界普遍的であり得るか、という問いに対して、ややもすれば中華思想に陥りかねないところ、許紀霖(1957-)は「新天下主義」を唱える。そこでは天や神のような超越的存在の想定を行うことなく、国民国家同士が相互に享受できる普遍性を追求していくという思想だ。僕は特に許紀霖のこの一節の持つ、帝国主義への分析的彗眼と先鋭な批判に魅力を感じる。帝国主義とはそもそも主体・客体の分離が著しく進んでしまった帰結であるという視点を持つことによって、日常的に用いられがちな主客二元論だったりとか、客体観察に重きを置く科学的態度の潜在的危険性を見直す契機になる。それとは一線を画する視点を持つことはできないのか。例えば、主体自身も同時に客体である、というよりもむしろ一つの客体に過ぎないことを強く意識するような、観察者視点だとか、分析を行うことはできないか。このあたりの考え方はおそらく國分功一郎氏のいう「中動態の世界」に大きく通ずるものがあるのだと思う。

スピノザ著・畠中尚志訳『エチカ(下)』(岩波文庫)

2月のオホーツク旅行の間中『エチカ』の上巻を片手にしていたので、『エチカ』を読むと斜里の情景がつい思い浮かんでしまうようになった。本や音楽と旅行のこうした連想記憶は好きだ。

(…)各人はあらかじめ同種のものについて形成した一般的観念と一致するように見える物を完全と呼び、これに反してあらかじめ把握した型とあまり一致しないように見えるものを、たとえ製作者の意見によればまったく完成したものであっても、不完全と呼ぶようになった。

(…)

 これで見ると、人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の認識に基づくよりも偏見に基づいていることが分かる。 (8–9ページ; 4月22日)

完全とか不完全といった価値判断については、ここから三つのことが言える。一つ目にこうした価値判断は各人の価値基準に基づくものであるということ、二つ目にこうした価値判断は既存の型との近さで行われるある種相対的なものであって絶対的ではないということ、そして三つ目に完全性のような価値基準はしばしばより人口に膾炙している基準に依っている、多数決的なものであるということだ。自分はここから他人との価値基準の違いを強く意識したいと感じる。

定理三五 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。 (50ページ; 4月24日)

この定理は非常にエポックメイキングであり、そしてスピノザを理解する上で欠かすことのできないものであるように思う。この定理を信ずるならば、社会を一に束ねあげるには人間はみな理性に従わなければならないし、逆にそうであるからこそ理性は崇高な行動指針足り得るのだとも言える。ルソーの一般意志はこの考えを継承したのだと想像するに難くない。

だがあるいは次のように尋ねる人があるかもしれない。徳に従う人々の最高の善がもしすべての人に共通でなかったとしたらどうであろう。(…)こうした人に対しては次のことが答えとなるであろう。人間の最高の善がすべての人に共通であるということは偶然によるのではなくて、理性の本性そのものから生ずるのである。なぜなら、この最高の善は理性によって規定される限りにおける人間の本質そのものから導き出されるからである。そして人間は、この最高の善を楽しむ力を有しないとしたら、存在することも考えられることもできないであろう。神の永遠・無限なる本質について妥当な認識を有することは人間精神の本質に属するのであるから。 (54ページ; 4月25日)

定理三五を受けている。賛否両論が多く、というよりも現代においてはこのような合理論的主張に心から賛同する人は多くはないのではないかと想像するが、ことスピノザを理解するにあたっては、人間が理性という唯一の法則に基づいて形作られたことを公理として措く必要がある。その下では理性が人間社会を束ねる強力な指針を指し示す。「この最高の善を楽しむ力を有しないとしたら、存在することも考えられることもできないであろう」の部分は理性こそが人間らしさの象徴である、ヒューマニズムの一定義であると解することもできて、僕は部分的にはこれに賛同することができるけれども、しかし同時にやはりこれこそが唯一のヒューマニズムの定義とするのは危険であると思う。ここにスピノザの矛盾、すなわち一方では価値基準の多様性を認めつつ、他方では絶対的理性主義を標榜する違和感を感じずにはいられない。

定理六八 もし人々が自由なものとして生まれたとしたら、彼らは自由である間は善悪の概念を形成しなかったであろう。

(…)

(…)この失われた自由を、族長たちが、そのあとでキリストの精神、すなわち神の観念——神の観念は人間が自由になるための、また前に証明したように(…)人間が自分に欲する善を他の人々のためにも欲するようになるための、唯一の基礎である——に導かれて再び回復したのであった。 (96–97ページ; 4月26日)

人間は非妥当な観念(すなわち悪)を持つからこそ、それに相対する善の観念を獲得できる。もし自由であったとしたら、人間は妥当な観念しか有し得ない。そしてこれが事実として我々の前に現前するからこそ、定理六八の仮定は誤りであり、人間は自由ではない。この論証を通じて、スピノザは人間は自由ではないことを主張する。しかし同時に面白いことに、自由でないからこそ善悪の対立観念が生じ、ここから価値基準が生じ得る。本当に自由であったとしたら人間には価値は生じなかったのかもしれない。これはニーチェの言う「評価する者としての人間」とも相通ずるものがある。ただし、スピノザ的自由は東洋的自由とは異なって、媒介論的自由、つまり何か第三者による抑圧が反実仮想的に想定される下での「自由」であると理解するのが自然であることに注意しなければならない。

後半も面白い。理性に従う人は「最大の認識対象」である神を根拠として、理性を他人に「押し付ける」ことが正当化される。「押し付ける」という言葉を使ってしまったが、スピノザの主張では理性の下では人間本性は一致するのだから、自らの従う理性を他人と当然共有し、行使することは自然なことである。そして、その理性の最大根拠は神であるとする。この思想はどのように人間社会を一つにまとめあげるかという難題に対して大胆な回答を与えるとともに、やはり主客二項対立的な危険な思惟を嗅ぎ取らずにはいられない。ここから西欧的植民地主義が正当化されていく流れもある意味で自然なように感じられてしまう。