読書録・2022年5月


仕事をはじめて2ヶ月が経った。仕事をはじめても読書を続けられるか心許なかったけれど、通勤のバスが意外とちょうど文庫を10数ページ読むのに良くて、今のところは無理のないペースで続けられている。仕事に8時間集中して打ち込むとどんなに研究が好きでもやはり疲れたり、ときにはネガティブな気持ちになったりするものだが、良い本を読むと少し仕事から距離を取ることができるので気分転換になっていると感じている。

W. ジェイムズ著・桝田啓三郎訳『プラグマティズム』(岩波文庫)

「役に立つ」を掲げる思想の筆頭であるイメージがあるプラグマティズムに漠然と良いイメージがなかったのだけれども、その思想の源流を辿っておくのは悪くはないだろうと思って手に取った。プラグマティズムという考え方自体は19世紀の終わり頃にパースが提唱し始めたらしく、それを確固たる地盤として固めたのが著者のウィリアム・ジェイムズということらしい。

 自分の子供を殺して自分も自殺したあのクリーヴランドの職工は近代的世界における、またこの宇宙における根源的な大事件の一つである。この事件は、内容が驚くほどからっぽで覚束ない存在を続けている神とか愛とか実在とかいうものについてどんなに議論を重ねてみたところで、ごまかし去ることもできなければ、またみくびりおおせるものでもない。(…)そしてこの事件がわれわれに教えるところは、このような事件をばあらゆる意識的な経験の至上の原因と考えないような哲学はすべて欺瞞でしかないということである。 (39ページ; 4月29日)

哲学者モリソン・スウィフトの、合理論者に対する痛烈な批判の一節の引用。結局どれだけ机上の空論を捏ね回したところで、目の前に現実として起こっている不幸に対して何の違いも生み出さないのであれば、それは虚構にすぎないという。ジェイムズはこうした考え方を基軸に、「その思想は世界にどのような違いをもたらすのか?」と問うことで、プラグマティックな哲学を展開していく。スウィフトのこの一節は元々新聞に掲載されていたらしく、元の文脈がきちんとわかっているわけではないので、幾分かラディカルすぎる主張に聞こえるし、そしてそれは自分自身の生き方に対する痛烈な批判にも聞こえるからこそ生理的に賛同し得ない部分もある。一朝一夕に貧困や戦争の撲滅に繋がる思想のみが価値を有する、とも聞こえかねないところもある。しかし、やはり最終的には自分の仕事に対してどこかで問い続ける必要はあるのだろう。その仕事は自己欺瞞ではないのか、と。

 最後の勝利を占めるものの見方は、普通人の心に最も完全な印象を与える力をもった見方であろう。 (46ページ; 4月29日)

市民の手を完全に離れた哲学、市民と心を共有できない哲学というのは、結局何者にもなれないのだろう。このこと自体は研究をやっていれば嫌というほど痛感する。より多くの人が自分ごととして捉えられている問題意識に対して取り組んだ仕事というのは、自分やその周辺のごく少数しか持ち得ない特殊性の高い課題に取り組んだ仕事に比べて、より多くの称賛を得られることが多い。僕はあまりにもプレイヤーの多い研究領域は「自分が仕事をしなくても良いかな」と思ってしまうので敬遠しがちなのだけれども、しかしそうした領域で仕事を残している人はしばしば大きな評価の対象となるので、羨望の的として遠くから眺めてしまうこともある。

しかし同時に、市民に共感されやすい思想というのはゆくゆくはポピュリスト的潮流を生み出しかねない危険性があるように思う。多くの市民に共感され、称賛されることを最高の是とするのなら、その先に待ち受けているのは多数派による少数派の黙殺なのではないか。ジェイムズの言うこの言葉は、単に大衆迎合的な姿勢ではなく、なんとかして少数派の、社会にはなかった・埋もれていた視点・思想・価値観にスポットライトを当てる方向を正当化するように解釈しなければならないのではないか、と思ったりする。幸いにして少数派の権利が注目を集めるようになってきた世紀でもあり、これも「普通人の心に印象を与える」力を十分に持っているのではないかと信じている。

 自由意志とは、プラグマティックに言えば、この世界に新しいものが出現するということ、すなわち、世界の最も深い諸要素においても、また表面にあらわれる現象においても、未来は過去を同一的に繰り返すものでも模倣するものでもないことを期待する権利という意味である。 (124ページ; 5月6日)

 かくして自由意志とは、救済の説として以外にはなんの意味ももってはいない。 (126ページ; 5月6日)

この部分では、自由意志に対する主知主義者と経験論者の論争に対して、プラグマティズムが与えうる示唆について議論している。ジェイムズは、肯定的な面としては自由意志は人間がより人間らしく生きるための希望を与え得る思惟であることを指摘すると同時に、否定的な面としては自由意志に関してそれ以上の議論を重ねたところで世界の見方は変わらないと断じている。前者に関しては、オルテガが「生とは可能性である」と論ずるのと完全にパラレルである。人間がより人間らしく生きていると言えるのは、自分の未来に開けた可能性の地平が感じられているときであり、自分の選択によって生を一歩前に進めている実感が得られるときであり、仮に自分の選択が全て決定論的に定まっているとラディカルに論じたとしたら、もはや自分の行為からは「自分らしさ」が欠如してしまう。だからこそ自由意志は救済なのだ。

 批判主義の哲学的段階は、消極的な面では科学的段階よりも遥かに徹底するにいたったが、それだけに実際的な力の面ではなんら新しい視野をわれわれに与えていない。ロック、ヒューム、バークリー、カント、ヘーゲル、彼らは皆、自然の局部局部に光を投ずるという点では、全く不毛であった。事実わたくしは、彼ら独得の思想から直接に生まれたと思われるような発見ないし発明を何一つ考えることができない。バークリーのタール水にしても、カントの星雲説にしても、彼ら自身の哲学説とはなんのかかわりもないではないか。彼らがその信奉者に与える満足は知的なものであって、実際的なものではない。しかもじつはその知的な満足でさえが大きいマイナスの面をもっている、とわれわれは認めざるをえない。 (189ページ; 5月7日)

合理論者に対する力強い批判。擁護をしておくと、カントに関して言えば天文学における仕事を行っていたのは活動初期なので、彼の哲学的仕事はそれよりもだいぶ後になるという点には触れても良いのかもしれない。いずれにしても、ジェイムズは「真の実在」のようなものを虚構であると断罪し、そのパースペクティブが人間にとってどのような違いを生み出すのか、そのような違いがないのであれば実際的な価値を論ずることに意義はないとする。

 「エネルギー」とは(オストヴァルトに従うと)、諸感覚が一定の仕方で測定されるとき現われるその姿(運動、熱、磁力、もしくは光、等々)にたいして与えられる集合名辞である。そのように諸感覚を量ることによって、われわれは諸感覚がわれわれに示す相関的な諸変化を、その単純さと人間の使用にたいする有効さとにおいて比類のない公式で、表すことができる。この公式こそ思惟経済の占める最高の勝利なのである。 (192ページ; 5月7日)

合理論に比べて、ある種の自然科学の見方が「プラグマティック」であることを示す例。エネルギーの実在性を推し量ることは容易ではないが、それにしてもエネルギーという概念を導入することで物事の見え方がすっきりする点に、エネルギーという概念の真価があるとする。この観点は統計的モデリング・予測にも当てはまるであろうと思われる。つまり、かたや表面的であると批判されがちな統計的予測ではあるが、それが実際的な価値ないし見通しの良さを我々に与えてくれる以上は、十分に役に立つものであると考えても良い、という観点である。

 ところで、主知主義者の大きい仮定となっているのは、真理は本質的に不活動な静的な関係を意味する、ということである。そこでもし諸君が何ものかについて真の観念をえてしまったとすると、それでもうおしまいなのである。諸君は真理を所有している。諸君は認識している。諸君は諸君の思惟するという運命を成就してしまったのである。諸君は諸君の心のまさにあるべきところにある。諸君は諸君の絶対的命令に服してしまった。だから諸君の理性的存在としての運命の最高の段階に達したからには、もはや上るべき段階はないのである。認識論的に見れば、諸君は安定した均衡の状態にあるのである。 (199ページ; 5月7日)

124ページの引用と関連する。真の観念がもし存在するなら、それを獲得してしまった時点で人間はもはやそれ以上何も得ることができない。であるから、認識の途中段階、未来に対して不確実性がある状態が、人間にとって人間らしく生きられる。そもそも人間の認知能力は有限なのだから、(おそらく無限であると思われる)世界の完全な認識が仮に存在したとして、それを獲得することは本質的に不可能なのではないか。だから、静的な真理の存在性を仮定していたとしても、そうした主知主義的世界観を単純に批判するのは筋が違うようにも思う。むしろプラグマティズムの観点から批判すべきであるのは、原理的に検証不可能であると思われる静的な真理についてあれやこれやと考察する試みは水泡に帰すのではないか、という点であるように思われる。

ここで言う静的な真理観は、(主知主義よりも経験論に近い)唯物弁証法においても当てはまるように思う。唯物弁証法では形而上学的な真理に対して異を唱えるが、彼らのアプローチはあくまで弁証法を適用することによって対象の認識を多面的に張り合わせ、矛盾を止揚することによって、真なる認識に到達しようとする、ないし到達する運動をもってして真理であると捉える(と自分は理解している)。プラグマティズムでは真理に対する態度はより諦観的で、そもそもそうした認識を存在しない、あるいは存在性に関する議論に価値を置かないとしている。

河合隼雄『宗教と科学の接点』(岩波現代文庫)

臨床心理での経験をもとにユング心理学的観点から、西洋的自然科学の限界と、従来科学で取り扱えない人間自身という対象を扱うべくどのように限界を乗り越えていくか、一歩踏み間違えるとオカルトにも陥りかねない瀬戸際で、先鋭的な思想の一端を垣間見ることができるスリリングな一冊だった。

 「たましい」という言葉をわれわれは明確な方法によって用いることはできない。なぜそれはあいまいなのか、なぜわざわざそのようなあいまいな言葉を使用するのか。これに答えるためには、デカルトによる物と心の明確な切断について考えてみるとよい。デカルトの切断によって、すべてのことが明確になったが、それによって人間存在のもつ大切な何かが消え失せたのではないか。その大切な何かがたましいであり、デカルト的切断の明確さに対応するために、それはあいまいでならなければならないのである。 (19ページ; 5月24日)

「たましい」は本作を通してひとつの重要なキーワードである。近代西洋思想の基礎づけを行ったデカルトの物心二元論はその後の哲学・科学の急速な発展を促すことに成功したが、それは論理という強力な武器によって世界や対象の複雑性を削ぎ落とし、効率よく取り扱えるようになったからであると言える。そこから零れ落ちた「何か」に実は人間らしさを構成する大事なものが含まれているのではないか。こうした課題意識は今世紀に入ってなおのこと鮮明化している。

また、著者もこの後で度々触れてはいるが、東洋思想による不立文字の態度はある意味でデカルト的切断によって失われたものを補完する可能性を持っているとも考えられる。

 このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための需要な条件となっていることは容易に了解できるであろう。(…)しかし、このようなことが成立可能となるための背景にキリスト教が存在したことも、われわれは見過ごしてはならない。科学の知が論理的に整合的な統合された体系をつくるはずである、それが自然なのだという確信を、一神教の世界観が支えていることは既に述べた。それと共に、このように他と切り離して存在する自我は、自分自身のこととなると、それは神とつながっていることを信じ、自我は死によって一度はこの世から消え去るかのごとく見えても、必ず復活するのだということを信じることによって、支えられているのである。 (25ページ; 5月24日)

なぜキリスト教を背景として西洋は自然科学を生み出すことができたのか。「神の思し召しを知ることで神の認識が可能になる」という中世的動機が原動力になったのは想像に難くない事だったが、前提として一神教であるからこそ神の創造した体系に矛盾はあり得ないと信じることができたという指摘は興味深い。そして更に興味深いのは、復活の概念を持つからこそ、有限の生であっても神の認識を得ることによってそれを「持ち越せる」、だからこそ真理の追求が虚構的なものではなく、実利的なものとして根付くのだ、という議論である。確かにこの観点はとりわけ東洋文化にはないものであって、自然科学の体系を生み出すに至った差異のひとつと言えるかもしれない。

 思考は思考を超えるものを濾してしまう濾過器(フィルター)である。 (54ページ; 5月25日)

人間は意識できるものしか意識系に上がってこないことを端的に表した言葉である。自然科学の全能性に対するアンチテーゼとして機能するのはもちろんだが、個人的には「思考を超えるもの」をそれでも思考の俎上に上げられるように思考の枠組みを拡張できないものか、といったことに興味を持ったりする。たとえば、従来の言語的枠組みでは表現しきれなかった感覚的な対象を扱えるように言語体系を広げるように。

 しかし、普遍的に正しいことばかりに支えられて生きていて、その人は個人としての人生を生きたと言えるのだろうか。因果律による法則は個人を離れた普遍的な事象の解明に力をもつ。しかし、個人の一回かぎりの事象について、個人にとっての「意味」を問題にするとき、共時的な現象の見方が有効性を発揮する。 (63ページ; 5月25日)

共時性とはユング心理学特有の概念であり、因果律と対照的な概念として挙げられる。因果律では結果に対して原因を措定することで現象の記述を行うが、共時的な現象は原因-結果の二項対立ではなく、同時に、偶然的に現象が生じることをパラダイムとして認める。因果律は普遍法則としての地位を確立する必要があるゆえに個別事象の捨象が行われてしまうが、共時性では個の事象をありのまま認める。因果律のパラダイムのように原因に対する介入を行って世界を操作するようなことはできないが、個の事象を捉える個人の「意味」を尊重する意味では、一般化、抽象化できない体験を保存するものであると言える。この考え方に触れて、俄然ユングに興味を持った。

 今西は自然(ネイチャー)についての進化を語っているのではなく、自然(じねん)の方に近い現象について語っている。その世界は極端に言えば、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つである」という福永の言葉に示される世界なのである。ダーウィニズムにおいては、突然変異によって生じた個体が「みずから」の力によって適応するところに進化の本質を見ようとするのに対して、今西説では「存在」の「おのずから」なる変化に進化の本質を見ようとしている、ということが出来る。 (145–146ページ; 5月28日)

(…)

 パメラ・アスキスは、「日本人が自然や動物に対して明らかにわれわれ欧米人よりも自らをはるかに近い位置に置き、またそれらに親近感をもっているということ、そして日本人の思惟方法の違い」がその特徴のひとつであると指摘している。 (147ページ; 5月28日)

日本における自然科学を通して見られる、欧米との自然観の違いについて触れている。ダーウィニズムが極めて西洋的な価値観に裏付けされた自然観であることは異論の余地がないと思われるが、実は20世紀になってから日本でも今西錦司が進化論の文脈において、淘汰的ではなくあくまで自然の中に一体的に組み込まれた生物種としての進化を提唱しているらしい。本著では今西説に関する詳細な解説をするには至っていないので、とりあえずこれを読んだ時点ですぐに今西の著書を買って積んだ。自分はダーウィニズムに代表されるような、本著でも度々取り上げられている主客二項対立的自然観に対して少なくない忌避感を持っていて、だから今西説のような主体が明確に確立されていないパラダイムであったり、後半で触れられているような自然と一体的な、「主体が没した」自然科学に多少なりとも可能性を感じている。生物学や物理学ではこうしたことを考えてきた日本人は少なくないが、計算機科学ではまだ皆目試みられていないのではないか。このような試みは果たして可能なのだろうか。

ちなみに、著者の河合隼雄も、ここで取り上げられている今西錦司も、どちらも京都大学出身であり、長く京都大学で教鞭をとっていたことも興味深い。

 中村は、「複雑なものの単純なものへの分割という方向をまっしぐらに進んだ近代科学は、実に多くのものを作り出したと同時に実に多くのものをこわし、また実に多くのものを発見したと同時に、実に多くのものを見えにくくした」と述べている。このなかで、科学が「こわし」、「見えにくく」したもののひとつが関係性ということであろう。中村は、自分と世界とを切り離して考えるなかから出てくるイデオロギーに対して、自分を世界のなかに入れこみ、自分をも含んだものとして世界をみるコスモロジーの重要性を強調する。イデオロギーによって世界を律しようとする人は、(…)自分を知らぬ間に、一神教の神の位置に置いているのである。

 これに対して、自分をも入れこむことになると、自分が「絶対的に正しい」とは言えなくなってくる。(…)このようになってくると、理論的に整合性をもつ、ひとつのイデオロギーによってみることが不可能になる。そこで、それは多義性をそなえたイメージとして把握するよりほかに方法がなくなってくる。多くの宗教の有している図像やシンボルがこれにかかわってくる。 (207ページ; 5月29日)

哲学者中村雄二郎の思想の引用。西洋科学を推し進める過程で主客の分離が激しく進み、結果として主体が世界から疎外されてしまう、これを「関係性の喪失」として取り上げる。とりわけキリスト教的宗教観が科学的知に置き換わるにつれて神によって繋ぎ止められていた関係性が急速に薄れてしまったのが大きい。自分としてはどのように「関係性を回復するか」に興味があるわけだけれど、それに対するアプローチとして宗教的なイメージが有効なのではないか、と述べる。ここには多神教におけるアイデアを持ち込む余地が大いにあるのだろう。

 「偶然」としか言いようのない現象に、「意味」を見出すことによって、それは共時的現象ということになる。ここで大切なことは、現象を経験したヘリゲルという主体が「意味」を見出したから、それは共時的現象と言えるが、ヘリゲルはそれは「単なる偶然の出来事」として棄て去ることもできるのである。 (212ページ; 5月29日)

ドイツの哲学者ヘリゲルが日本の弓道の師、阿波研造師範に入門した際に、弓の道に関して阿波研造と論駁を繰り広げた末に、ヘリゲルが挑発して目隠しをして的を射よと要求した際に、阿波研造は見事に目隠しをしたまま的中させたというエピソードを受ける。これを受けてヘリゲルはいたく感銘したということだが、もちろん偶然の出来事として無視してしまうこともできるわけで、重要なのはヘリゲルがその経験に対して個人的な意味を見出したということである。これは共時性を理解する例として非常にわかりやすい。