読書録・2022年3月


京都に引っ越してきてあっという間に2ヶ月ほどが経った。ここ数年それなりに継続している読書の習慣も引越し後の生活リズムと調和するようになってきて喜ばしいのだけれども、「読みっぱなし」になっているのがやや気になっていた。よほど気に入った本は精読し直してノートに軽いまとめ書きをする、みたいなことも昔はしたことがあるが、流石に毎冊それをやると時間がかかって仕方ないので、読んでいるときに何かしら琴線に触れたフレーズをとりあえずスマホで撮っておくことにしてみた。いくつか撮り溜まってきたので、引用を添えてまとめてみることにする。この方法で継続できたら良いのだけれど。

野矢茂樹『語りえぬものを語る』(講談社学術文庫)

ヴィトゲンシュタインを問題提起として野矢茂樹が言語から認識まで幅広く語っている。科学を生業とする人間としてどうしたって科学哲学に興味を持たざるを得なくて、そんな中で「一体我々はどこまで認識・理解可能なのか」という途方もない問いに対していくつかの思考の道標を与えてくれるように思う。

フォグリンの診断によれば、人間の理性は野放図にその本領を発揮させるとろくなことにならない。われわれは理性の手綱をとらねばならない。しかし、理性の手綱を理性にとらせるというのでは洒落にもならない。そこでフォグリンは、理性を非概念的な制約に服さねばならないと訴える。その点で、彼の見るところ(そして私も同感であるが)、非概念的な制約を逃れて理性が野放しになった最たるものが、哲学なのである。逆に、きわめてうまく手綱がとれている例が、自然科学だと言える。(p.366; 3月15日にメモ)

そういえば、先日知り合いの哲学者と議論したときに似たようなことを言っていたことを思い出した。彼は端的に言えば科学哲学を研究しているのだが、その学問的アプローチや記述方法が極めて自然科学的で、自分はそれが面白いと思って尋ねてみた。曰く、「哲学者でさえも古典的哲学はレトリックの世界で『何でもあり』のように感じることがあるので、逆に自然科学的論理の制約で議論可能な知を築き上げたい」と感じたそうなのだ。これは自然科学的論理の制約としての負の側面をたまに感じる自分とは逆の立場で、はっとさせられたところがある。

フォグリンが言おうとしているのは、論理のみの積み重ねで到達できる領域(ヴィトゲンシュタイン的語彙では「論理空間」となろうか)にはある種のナンセンスがあって、そこから逃れるためには「非概念的」な手法が必要であり、言い換えれば人間の感性的・感覚的な側面と繋がったアプローチが必要ということではないだろうか。それが体現できているのが自然科学だという。それは僕が思うに、自然科学は客体による「対象評価」の側面があり、そこには感性的なものがあるからだ。

この言葉が引っかかったのは、僕自身が「数理モデルのメタ評価」のような研究ができないか考えていたからだ。数理モデルの良さの基準は人間が与えるのが従来だけれども、そもそも人間が思う良さの基準が曖昧だったり、そこから主観性を排除したいと思うかもしれない。そんなときに論理を手立てとしてメタ評価基準を与えられないか、と考えていたのだけれども、フォグリンの言葉は自分の考えに対して冷や水を浴びせるようなものだった。そもそも僕の考えはまだ稚拙で、メタ評価を考えようものなら当然メタ・メタ評価が生まれてしまうわけで、その無限運動を食い止められなければ本質的な解決にはならない。だから、本質的に僕の考え方は筋が良くないのかもしれない。

われわれは、機械の部品について、それがこのように動くことしかできず、それ以外の動きは為しえないかのように、語る。どうしてか。それはつまり、その部品が曲がったり、折れたり、溶けたりするといった可能性をわれわれが忘れているということなのか。その通り。われわれは多くの場合そうした可能性をまったく考えていない。われわれは機械、ないし機械の像を、特定の作動の仕方を表すシンボルとして用いるのである。(『哲学探究』第一九三節) (p.469; 3月16日にメモ)

「ヴィトゲンシュタインの引用」の引用になってしまった。この節は、自然科学の絶対性、あるいはより一般的に言うのであれば決定論に対する批判に持ち出されている。しかし今見返してみると、一ヶ月前の自分がなぜ気に留めたのか、理由がわからない。代わりに、一ヶ月の間に読んだユクスキュルの思想に思いもよらない形で関連しているように見えた。ユクスキュルは環世界をいうアイデアを提唱する。あらゆる生物、人間のような主体は、各々が持つ知覚器官が与えてくれる、作用器官が働きかけることができる客体しか、自身の世界の中には表象し得ない。言い換えれば、「世界の見え方」は主体に完全に依存しており、普遍的な環境というものは存在しない。こういう「世界の見え方」のことをユクスキュルはその主体にとっての「環世界 (Umwelt)」と呼ぶ。ヴィトゲンシュタインの言葉に戻ると、ある人間にとってはその機械が特定の作用を行うトーンとしてしか知覚できないかもしれない。それはその人の環世界においてはその機械がそのトーンを持つということになる。科学技術社会論的観点から言えば、科学技術の不確実性やリスク管理等の批判がなされる文脈ではあるが、環世界の観点から言えば純粋に「環世界があるのだ」という事実に留まる。

ニーチェ著・氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(岩波文庫)

わたしが愛するのは、その魂が気前よくできている者だ。ひとから感謝を求める気持もなく、返礼などを知らない者、というのは、かれはつねに贈物をするのであって、自分のために何ひとつ残して置こうとしないからである。 (p.20; 3月28日)

この言葉は、ノブレス・オブリージュや公平性を考えるときに、自分の行動指針として持っておきたい言葉だ。自分が少しでも与えられたものがある(“gifted”)という認識があるなら、それは人のために使うべきだ。社会的に弱い立場にある人がまわりにいるなら、自分が多少の損をしようとも、見返りを顧みずに手を差し伸べるべきだ。ひとは “give and take” と言うけれども、それは平等ではあるけれど公正ではなくて、“give and give” くらいでちょうど良いのだ。

 劇務や、スピードや、新奇なものや、異常なものをこのむあなたがた全部——あなたがたは自分自身の始末に困っているのだ。あなたがたの勤勉は逃避であり、自分自身を忘れようとする意志なのだ。

 あなたがたが、もっと人生を信じていたら、これほど瞬間に身をまかせることはあるまい。だがあなたがたは、待つことができるだけの充実した内容を、自己のなかに持ちあわせていないのだ、——それで、怠惰にさえもなれない! (p.74; 3月30日)

この言葉は非常に諫言的だ。日々目先の小さな仕事ばかりに目がいってしまい、自分が生きる上で何を大事にするべきなのかを見失ってしまう、いや、ツァラトゥストラに言わせるならむしろ忘れようとしている、そんなことはよく経験する。これはオルテガの批判する「大衆」の典型的な行動のひとつでもあると言えるだろう。つまり、与えられた仕事だけで満足してしまい、人間らしい生の追求をしなくなってしまうような状態だ。

 まことに、人間は、その善とし、悪とするところを、自分自身で自分自身に与えたのである。まことに、人間はそれをはたから受け取ったのではなく、どこかで拾ってきたのでもない。それは天の声として、かれらに降ってきたのでもない。

 自己を維持する必要上、人間が事物のなかに、はじめて価値をさしいれたのだ。——人間が事物に意味を、人間的な意味をはじめて与えたのだ!だから、かれは「人間」と呼ばれるのである。すなわち「評価する者」と。 (pp.97-98; 3月31日)

僕の研究上の大きな興味のひとつに「数理モデルをどのように評価すべきか」という問いがある。元々なぜ「評価」に興味を持ち始めたかというと、そもそも計算機科学の問題は評価方法が定まればほとんど問題に対するアプローチが決まってしまう(いやこの言い方は反論を招きそうなので、正確に言うと「評価方法が定まれば問題を解く大まかな道筋が見える」とするのが良いか)一方で、評価方法を定めることには様々な価値観が混入するゆえに一筋縄ではいかないからだ。ただ、「一筋縄ではいかない」から興味を持ったというだけでは動機としてまだよくわからないところもあって、そのときにこの言葉に出会ったので面白いなと思った。「人間はそもそも価値判断を行う」という特殊性がある点を「公理化」してしまうという考え方だ。