個性記述的科学は可能か?


 年始になるが、リッケルト『文化科学と自然科学』を読み終えた。元々大学院時代に思想史専攻の友人と雑談していたときに、僕が「どうも現代自然科学のアプローチは過度に普遍性を強調していて対象の個性的記述を軽視しているように思う」と言った旨のことを喋った折に薦めてもらった本だった。

 そもそも自分の課題意識はこうである。自然科学はニュートンを端緒に始まった「繰り返し生起する」現象を観察し、得られた観察の間に普遍的に成り立つ法則を導き出す学問体系のことであることに異論はないと思う。特に19世紀末から統計学が登場して以来、「普遍性」の定量化が可能になってきた。推測統計学では母集団の性質を議論するために経験分布(抽出=観測された標本上で定義される一様な確率分布)を用いる。より多く生起する観測には重きがおかれ、稀にしか生起しない観測は「偶然の産物」だとみなされ、大標本の世界に近づくにつれて漸近的に淘汰されていく。こうして導き出された法則というのは、基本的には「興味がある=頻繁に観測される」現象に着目する傾向があり、大標本の中で「興味がない=稀にしか観測されない」現象を無視する嫌いがある。それは極端に言えば大衆迎合的、あるいはマイノリティを排除する所作ですらあり得る。これだけだとあまりの極論、暴論のように聞こえるかもしれないが、いまや自然科学的アプローチが人文学にも適用される時代である以上、自然科学における普遍性の意味を一度吟味しておかないことには、「一回生起的」な私たちの個がゆくゆく蹂躙される可能性は十二分にあると考えるのである。

 さて、リッケルトを最初に薦めてもらった節に教えてもらったのは、「個性記述的アプローチと法則定立的アプローチ」というアプローチ水準での学問の差異である。実際、リッケルトの中でも「個性記述」と「法則定立」というキーワードは度々登場するものであり、自然科学と人文学の学問的特性をメタレベルから解き明かすのにひとつの重要な軸となる。法則定立的な態度というのは、端的に言えば上で触れた自然科学的な手法のことであり、現象のうち興味のある側面を切り出して普遍的な特徴を捉えようとする試みである。一方で自分が気になってくるのは個性記述的な態度である。広義の自然科学者である僕の視点からは、人文学のようにある文学作品、ある宗教的共同体、ある社会制度を個として取り上げ、それらの特徴、仕組み、他との関係をとことん記述し尽くす「個性記述的」な態度というのは、ひょっとしたら過度に普遍性を希求してしまう自然科学の急進性を乗り越えるための嚆矢になるのではないか、そんな心持ちがしていた。

 ところが、リッケルトの論じるところはどうもそのように単純ではないらしい。リッケルトは歴史哲学を学問的出自とするが、19世紀の歴史学では「いかにして封建的権力の正当化手段であったところの歴史編纂を客観的な歴史記述へと転換するか」という論点が衆目を集めていたらしい。確かに、かたや自然科学では既にキリスト教との離婚を遂げることで「客観性」をベースとした大きな発展を遂げていた一方で、歴史学は政治的なツールに留まっていた側面があった当時の情景を思い浮かべると、歴史学者たちがそのような考えを抱くのは想像に難くない。この歴史哲学の難題は現代においても未だに議論され続けている(E・H・カーに詳しい)のを鑑みればなおのことである。したがって、歴史学や心理学のような人を対象として扱う学問がいかに科学的手段を身につけるかが大きな論点となっている。歴史学ひとつを例にとっても、近代の歴史学者の興味が必ずしもある歴史的事実を仔細に調べ尽くす意味での個性記述にあるわけではない。むしろひとつないし類似の歴史的事実の観察を通じて、いかにしてそのような歴史的事実が生起するに至ったか、その背後のメカニズムを理解しようとする点に動機づけられていることすらあるらしい。この立場の下ではもはや学問の動機は普遍的な現象の理解にあって、多くの自然科学に見られる帰納推論的なフレーバーを醸し出す。

 こういった話を別の友人としていたところ、彼は逆に「理工系の学問でも個性記述的な態度が見られることがあるのでは」という指摘をした。例えば(以下は彼の挙げた例ではないのだが)ある微分方程式があって、いまここではとにかく当該の微分方程式を解くことに興味があったとした場合、当該の微分方程式がどのような性質を持つのか、既存の解法群が適用できるのか、はたまた得られた解には安定性があるのか、そうした系の「個別的な」特徴に対して興味をもつのは自然だろうし、別に一連の特徴が他の系に対しても外挿可能な普遍性を持つのかどうかに興味がないということもあり得るだろう(もちろん普遍性に興味を持つこともある得るだろうし、それは歴史学者が歴史的事実自体の個別的特徴に興味があるのが、背後の普遍的メカニズムに興味があるのか、個々の研究者の興味対象の別が存在するのとパラレルだと思う)。ただし、現象が本質的に一回生起的ではない点、また、微分方程式の解自体が普遍性を持ち得ることはある(波動方程式自体の個別的性質に興味があったとしても、波動方程式の与える記述自体は普遍性を持ち得ることがあるように)ため、ここでいう個別性と普遍性には歴史学でいう個別性と普遍性とは「論理階型」が異なる点には留意したほうが良いだろう。換言すれば、対象自体の個別性と対象が与える帰結の普遍性は注意深く区別する必要があるということになる。いずれにしてもここで重要だったのは、学問の対象(人か自然か)、一回生起的であるかないかの性質の異、そして個性記述的か法則定立的かのアプローチの異はいずれも独立の軸になるということである。

 こうやって考えを進めてくると、個別記述的かどうかは案外見方の違いに起因するのに過ぎないのかもしれない、という気がしてくる。そこで一旦さらに個性記述的アプローチと法則定立的アプローチの違いについて深堀りし、それぞれのアプローチはプラグマティックには何を目指しているのか、そして自然科学の普遍性希求の潜在的な問題点が何であるかを考える。まず、法則定立的アプローチのほうは比較的特徴づけが容易であるのだが、対象となる現象の観察を繰り返し、共通して現れつつ、かつ現象の結果を将来予測するのに役に立つ性質を抽象化し、普遍法則として編纂するものである。帰納的推論と言い換えてもよい。ではなぜ法則定立しようとするのか。それは、基本的には私たちの持ちうる認知能力が世界全体がもつ情報量に比べてあまりに限られており、観測のディテールのすべてを記述しきるとか、そこから将来起こりうる事象をすべて精緻に予測することが不可能であるからである。そのため、興味のある対象を記述するのに重要ではないディテールは捨象し、情報圧縮を行う。こうしてある意味で「本質的な」法則を抽出できたときに私たちは「理解した」と感じ、抽出した法則を用いて将来予測が行えたときに「役に立つ」と感じるわけである。このような世界把握の枠組みが、法則定立的アプローチのプラグマティックなご利益であると言えるだろう。

 一方で個性記述的アプローチはどうであろうか。僕は専門家ではないので、以降の思索は素人考えを不可避的に含むことになってしまうが、例えば歴史学ではどうであろうか。ある歴史的事実に対して「完全に客観的」な唯一の描像を与えようとする試みも理解可能ではあるけれども、立場も経験も異なる人が自分にとってどのように事実が映るのかを(ある意味では「主観的」に)各々記述することには少なくない意義があるのではないだろうか。なぜなら、既に様々な立場や価値観を持つコミュニティが存在する以上、ある価値観や経験を持っているときにどのような事実の認識が得られるのかを知ることは、異なるコミュニティが共存する上では相互理解を促す前提となり、私たちがより良く生きていく上で大切であると思われるからである。歴史学だとまだ多少「絶対的客観性」に対する信仰があり得るかもしれないが、これが文学を対象にしたときには相当にナンセンスさが際立つであろうと思う。さて、個性記述的アプローチが仮にこのような意義があると認めたとすると、そのアプローチは「ある価値観・経験を前提とするならば対象は X のように認識可能である」という記述的形式をとることになる。これは先ほど法則定立的アプローチが帰納的であるのとパラレルに、個別記述的アプローチが演繹的であることを意味する。演繹推論は主張内容の中に前件を含んでおり、この部分が主張者の持つ価値観や経験である、という形で捉え直せると考えられる。演繹推論の手続きに則って対象を記述するということは、ある前件をもとにしたとき対象・事実・作品がいかにして理解されるか、を述べることに他ならない。つまり、個別記述的であったとしても法則定立的な場合と同様に対象の理解が目的になっていることは共通しており、ただしそのアプローチがボトムアップの論理であるため、仮に前件を共有できるのであれば普遍性を持つが、前件を共有できなかったときにはその意味で「主観的」になり得るものであると言える。

 言葉を変えて言い直そう。いま、因果関係 X → Y が二つのアプローチでいかに記述されるかを考えることにする。法則定立的アプローチでは、(X, Y) の組の観察を繰り返し行い、X → Y の因果を捉えることを試みる。もし X → Y の因果関係がある一定数以上の観察で共有して見られるようであれば、そのような因果関係があることを措定できる。観察の数が増えれば増えるほど、普遍的な主張としての説得力は増す。しかし同時に極稀に観測される X → Y の因果関係が満たされない観測に関しては、興味のない観測、あるいは外れ値として無視されてしまう。一方の個性記述的アプローチでは、前提となる公理群 A(主張者のアプリオリな経験など)が与えられる。ここでは A を出発点として X → Y を帰結できるかが問われる。X → Y が帰結できたとすると、A が成立する範囲内では X → Y は存在する現象であり、A が成立しなければ存在するとは限らない。その意味では普遍性を持たない。

 ここまでの議論をまとめると、ある意味で個別記述的・法則定立的アプローチはそれぞれ演繹・帰納推論的であると見なせる。また、前者は前件を主張の中に含むという意味で「価値(観)を内包する」と言うことができ、後者はそうではないと言うことができる。厳密に言えば、法則定立的アプローチでは「普遍的に法則が成立する」ことが価値であると言えるが、その法則を成立させるためのアプリオリな根拠や信念が欠落している。この信念の欠落が自分にはどうもナイーブな普遍性を持ち出す議論の危うさであるように感じられる。個性記述的な科学を目指すためには、少なくともこの点を認識し、価値内包的な形式を目指す必要があるように思われるのだ。