プラグマティズム再考


 昨日は思想研究に携わっている人たちと会う機会があり、僕は普段そういった自分たちの思考に対してメタ的な立場から議論する環境があまりないため、自分がひとりで考えてきたことをいくつか食事の席で述べてみた。すると自分が思いもよらなかった視点からの回答を貰うことができた。僕の想像の範疇を超えていたのは以下の二点、すなわち「プラグマティズムは価値相対的なのではないか」ということと「普遍的な概念が存在しないのと同様に、真に個別的な概念もまた存在しないのではないか」という論点だった。相互に関連する二つの主張内容ではあるものの、同時に議論すると収拾がつかなくなりそうなので、ここではまず前者について触れておくことにする。

 プラグマティズムは元々デューイ、パース、ジェイムズらを代表とされる研究者らによって提唱された概念であり、主知主義的に普遍的な真理を追い求めるかわりに、その思想がどのような影響を周囲にもたらすのかを意識する試みである。仮に「普遍的」な真理が存在し、それに我々がアクセスできたとして、真理に到達したことによって我々の生活が何も以前と変わらないのであれば、その真理は無用の長物と化してしまう。ジェイムズの言葉だったような気がするが、「think how it makes a difference」と問い続ける哲学的態度である。プラグマティズムは(僕の想像するところだけれども)19世紀にヨーロッパ大陸に蔓延しつつあったドイツ観念論だとか実存主義だとか、そうした大陸哲学に対する猜疑心から生まれた態度だと思われ、牽引者であるデューイ、パース、ジェイムズらがアメリカの思想家であったことからもわかるように、極めてアメリカ的な功利的な考え方から生まれたものなのではないかと推察する。極論するならば、「『役に立つ』学問に集中せよ」とも言い換えられるような、そういう響きを自分のような天邪鬼は受け取ってしまうのである。「how it makes a difference」の部分に関しても、結局「difference」が自分にとって価値があっても大多数の人間にとっては価値のない「difference」であったとしたら、他人に自分の思想の価値を認めてもらえないことは往々にしてあり得るのである(いや、別に心理的な問題として自己承認が欲しいというわけでは必ずしもないのだけれども、仮にも思想=研究を稼業として生きている人間としては、多かれ少なかれその価値を何らかの形で認められないことには生活ができないという事情がある)。要は、僕はプラグマティズムの問題点のひとつとして、思想の価値を認めるための判断基準を外在化してしまうことは、「普遍的」な価値基準への従属から逃れられなくなってしまう危険性があるのではないか、という点を危惧していたのである。

 そこでひとつ目の論点「プラグマティズムは価値相対的なのではないか」という点に入る。曰く、パースらの思想を端緒とする元来のプラグマティズムは、少なくとも価値相対的、つまり、ある思想の価値を認めるためには何らかの外在的な判断基準に委ねることを提案するが、外在化した判断基準の優劣に関しては踏み込まない立場をとる、という(もちろんそうでない立場をとるプラグマティストも存在する)。換言すれば、プラグマティズムはある思想の価値を尋ねられたときに「how it makes a differece」と問うことはするが、「difference」自体の価値を問うことはしない。「価値自体の価値」「difference の価値」は各々の評価者に内在するあくまで個別的なものであり、そこに普遍性を認めることを強要しないわけである。こう言語化されると至極当然のことを言っているように聞こえるが、僕自身の思考の中では「プラグマティズム=価値外在化」と「価値普遍性」を結合して一つの実体として扱っていた嫌いがあったことを自認できたのは良かった。おそらくこれら二つの概念は独立のものとして検討される必要があるだろう。

 自然科学の観点からは主張の価値はプラグマティックにはどのように捉えられるだろうか。それはある科学的発見が何か工学的な応用に結びつくのか、将来の予測に持ちることができるか、といった観点から価値付けがなされるだろう。科学的主張や事実は一般に仮定があってその下で主張の内容が規定されるであろうから、論理導出規則の形 X → Y で書いておく。そして、X から Y が帰結できるのはあくまで「それが将来の予測に立つのが望ましい」といった前提があるわけだから、これを V(alue) と書くことにすれば、全体としては V → (X → Y) という図式になる。この図式は実は前回(個性記述的科学は可能か?)述べた個性記述的アプローチの図式と一致する。前回は自然科学の多くは法則定立的アプローチをとっており、法則定立的アプローチでは普遍的な X → Y の希求が目指され、そこには X → Y を基礎づけるための「信念」が欠落していると述べた。しかし考え直してみると、(これも言語化すると当然かも知れないが)「普遍的に成り立つ帰結に価値がある」という V を前提にしたときにはじめて X → Y の推論ができるのであるから、法則定立的アプローチでもある意味では V → (X → Y) の図式に当てはまると言えそうだ。ただし、個性記述的アプローチでは V として判断者の多様な価値が認められる一方で、法則定立的アプローチでは普遍的なものに価値をおく意味で V は画一的な価値になる傾向にあるだろう。

 ここから更にもう一歩踏み込む。パースの提唱した重要な概念のひとつに「アブダクション」が挙げられる。「遡及推論」などとも訳されることのあるこの推論のアプローチは、演繹とも帰納とも異なり、帰結から前提を「遡及的に」導こうとする推論であると理解される。これを先ほどの V → (X → Y) の図式に当てはめてみよう。自然科学では観測事実として多数の X → Y が得られる。多数の観測が複数生起的に得られているのだから、これは普遍的であると結論づけてしまい、それ以上でもそれ以下でもない、普遍性を希求する科学的な試みの一環であると捉えられるかもしれない。しかし、本来のプラグマティズムでは「普遍的であることが良い」という価値に(半ば思考停止的に)拘泥することをよしとしない。「Think how it makes a difference」である。そのため「X → Y が何度も観測されるということは背後にどのような前提 V があるのか」を問い直す。前提 V を浮かび上がらせることに成功すれば X → Y という主張・法則の基礎づけになるし、V という価値が我々にとっていかなる帰結をもたらすかを検討することが可能になる。V はときには普遍性であるかもしれないけれども、我々の生活のあらゆる場面で普遍性のみが絶対的価値であるとは限らないだろう。そのような場合、普遍性から導き出される主張 X → Y は「difference」を生み出さない。そう、以上の意味で、アブダクションは科学のアプローチに内在していた価値基準を相対化できる可能性を持っており、これがプラグマティズムの価値相対的な側面なのではないか、と自分は理解した。再三になるが、プラグマティズム自体には元来「価値普遍性(ここでは『普遍性』を『普遍的』な価値として認める性質)」を持たず、そのような価値は外在化されているものであり、プラグマティズムの採用・不採用とは独立に検討され得る対象である。