読書録・2022年6月〜7月
前回の更新から時間が経ってしまった。読みっぱなしにしてしまうのは勿体ないと感じていて、読んだ本を振り返る時間を通じて自分の中で考えを反芻させることを重要視しているのだけれども、それなりに時間のかかる作業であることに違いはないので億劫になってしまうことがある。夏はそうした時間を落ち着いて取るのには向いていないのかもしれない。
J. S. ミル著・関口正司訳『功利主義』(岩波文庫)
言わずと知れた有名な概念。5月に読んだ『プラグマティズム』の巻頭でジェイムズがミルについて「プラグマティズムの祖」として言及されていたのを受けて、関連して読んでおくのは良いかもしれないと思って手に取った。全編を通して効用とその支柱となる道徳や倫理がどのように形成されるのかについて論じられているが、自分の前提知識が足りずに消化不良になった部分が多い。扱われているテーマ自体は自分の興味と非常に関連性が高いため、将来的にもう一度挑戦したいと思っている。
そこで、命令法について言うと、これには科学とは別の特性がある。つまり、技術(アート)という特性である。事実に関する言明としてではなく、規則や準則として述べられるものは、どれも技術である。だから、正しい言い方をすれば、倫理や道徳は、人間本性や社会に関する科学に対応する技術の一部分である。 (184ページ; 6月7日)
科学と技術の関係に直接法「…である」と命令法「…すべきだ」を対置し、道徳は後者に属することを主張している。これは客観的事実と主観的価値表明の二項対立とも置き換えられる。道徳や倫理が命令法として表明されるのは指摘されれば自然なことであるが、自分はそれらと技術がパラレルに議論されている点に少し意外性を感じた。ここは訳注を参照すると、
(…)ミルが念頭に置いているのは、古代ギリシャ以来の言葉でテクニックの語源にもなっている「テクネー」であろう。(…)プラトンやアリストテレスは、人間の生き方や国家のあり方に関しても、この「テクネー」という言葉を使っていた。
と補足されており、自分が理解しているよりもまだまだ「テクネー」という語が幅広い対象を指していることを再認識した。ここまで追えば技術(テクネー)と道徳がパラレルであるのは容易に理解できるのだが、一方で「新しい」意味での技術とここで用いられている「古い」意味での技術の関連性がややわからなくなってくる。技術(テクネー、アルス)によって創出される価値観が、人間の生き方や国家のあり方を支えるという考え方になるのだろうか。
ニーチェ著・氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(岩波文庫)
3月下旬に読んだ上巻の続き。
何が善であり、何が悪であるかは、まだだれも知らない。それを知るのは創造する者だけだ!
——ところで創造する者とは、人間の目標を創造し、大地にその意味と未来とを与える者のことだ。この者がはじめて、或るものが善であり、或るものが悪であるということを、創造するのである、と人間の目標を創造し、大地にその意味と未来とを与える者のことだ。この者がはじめて、或るものが善であり、或るものが悪であるということを、創造するのである、と。 (92ページ; 7月12日)
ツァラトゥストラは上巻から善悪や価値基準とそれらの人間にとっての意味をひとつの中心的なテーマとして取り扱っている。このフレーズも、ニーチェが価値基準を打ち立てる者に注目していることを窺わせるものだ。
人間における過去を救済し、すべての「そうあった」ものを作りなおし、ついには意志をして、「しかし、わたしがそうあることを意志したのだ! わたしはこれからもそうあることを意志するだろう——」と言わせるように教えた。
——わたしはかれらに対して、これを救済と呼んだ。これのみを救済と呼ぶべきだと、わたしはかれらに教えた。—— (95ページ; 7月12日)
人間の自由意志が救済でしかないという、ジェイムズのプラグマティズムと強く呼応する。オルテガにせよ、ジェイムズにせよ、20世紀初頭の思想家はニーチェから受けた影響を強く感じさせる。生は可能性、生は人間が自分で選択を勝ち取った、そしてこれからも勝ち取り続けるであろう、と思えることではじめて充実する。この思想のルーツはいつから受け継がれ続けているのだろう。
さあ、しっかりしなさい! あなたがた、「ましな人間」たちよ! いまはじめて人間の未来の山が陣痛のうめき声をあげる。神は死んだ。いまこそわれわれは願う、——超人の生まれることを。 (254ページ; 7月21日)
有名な「神は死んだ」のフレーズ。絶対的価値基準を担保する存在を喪失してしまった以上、その下での安住は望めない。だからこそ「人間を克服」し、新たな価値を、善悪を、自ら創造するような「超人」が必要であることを主張する。絶対王政、君主の権力が揺らぎ、個人主義がますます確立されるようになってきた時代背景を考えると、当時の人間は自分の位置づけがわからなくなっていく不安を感じていて、それをどのように克服するのかを懸命に考えていた。ニーチェの言葉はその端緒なのではないか。自分はそのように理解している。
学者たちは、嘘を言わないといって威張っている。しかし嘘をいう力がないというだけでは、真理への愛には、ほど遠い。用心が必要だ!
熱病にとりつかれぬというだけでは、認識と呼ばれるには、ほど遠い! わたしは冷え切った知性に信用をおかない。嘘もつけない者は、何が真理であるかを知らない。 (261ページ; 7月21日)
学者に対する痛烈な批判。アカデミズムでは先人の積み上げてきた真理の上に新たな真理を築くことに固執するあまり、ときに権威主義的な、対象の意義に対する価値判断を失ってしまった、盲目的な信奉に陥ってしまうことがある。研究者である自分の目から見れば、これは現代の学問や研究においてもよく見られる光景だと思う。真理とは何かを本気で考え抜くことをせず、自分が進むべき道に対して常に疑ってかかることをしない学者は、「真理」にたどり着くことはできない、と力強く主張する。
批判自体は非常に情熱的で耳を傾けてしまうし、自分も賛同する部分がかなりあるが、少々批判的に見たほうがよいかもしれない。先程はジェイムズがニーチェから影響を受けたかのように見えたが、この部分では逆にジェイムズはニーチェの考えとは相反するのではないだろうか。すなわち、ジェイムズはあくまでプラグマティズムに貫徹し、主知主義的な真理なるものの実体を疑問視する。また、ここでのニーチェの哲学にはそもそも「真理に到達することに何よりも価値がある」という考えが滲み出ているが、本当にそうなのだろうか。主知主義的世界観の下では真理に到達できないことは盲目であることを意味するだろう。それはあくまで主知主義の下での話であり、単一の価値基準の下での競争、淘汰のような世界観が展開されてはいないか。自分は少々その点が気になった。
言いくるめられるな! 説きふせられるな! いったいあなたがたの隣り人とは、だれなのだ? いくら「隣り人のために」つくしても、——あなたがたは隣り人のために、生み、創造することはできない!
あなたがた創造者たちよ! この「……のために」を忘れることだ。こうした「……のために」「……の目的で」「……の理由で」などでは決して行われないということを、まさしくあなたがたの創造の徳は要求しているのだ。こうしたいつわりの小さな言葉に対して、あなたがたの耳をふさぐべきだ。
(…)
あなたがたの愛のすべてがあつまるところに、すなわちあなたがたの子どものもとに、あなたがたの徳のすべてがある! あなたがたの仕事、あなたがたの意志こそ、あなたがたの最も近い「隣り人」なのだ。いつわりの価値を信じこまされるな! (263ページ; 7月21日)
価値、生の意義が何のためにあるのか。隣人への奉仕というのは傍目慈善的で倫理的に素晴らしいことのように見えるけれども、隣人の価値と自分の価値は根本のところで食い違うことがあるのではないか。「誰かのために」「何かのために」行われる行為というのは本質的には自分の生には貢献し得なくて、結局のところ自分の心底から自然(じねん)的に生じる価値観に従って事をなすのが、自分の生を全うするのに大事なことなのではないか。言い換えるとそのような意味に取れる。
奉仕精神は素晴らしいのだけれども、自分はそのような精神に対して懐疑的なきらいが多少あって、その気持ちをクリアに晴らすような文章だった。価値観を外在化するのは自分の生のアウトソースであり、時として非常に危険なことだ。そのためにある意味では個人主義への回帰を唱える。自分の考えに呼応する部分が多い一方で、この考え方自体もかなり近代西洋の個人主義が色濃く反映された思想かもしれない。つまりシステムよりも個人の存在意義を優先するような。現代社会の諸問題はそうした個人主義が先鋭化した結果生じているものも少なくないから、この考え方は大事にしつつ、一方でどのように全体と折り合いをつけていくかは考えていく必要がありそうだ。