研究はどれくらい注目を集めるべきか


 研究者は読んで字のごとく、研究を行う職業だ。人類史上いまだ解かれていない問題を、そしてその中でも何らかの判断基準の下で価値があり面白いと認められる問題を、提示して解決する道筋を与える。その結果を論文や書籍という形で編纂し、誰でもアクセスできる公知として人類知に積み上げる。一般的に研究とはいかなる営みか、と問われれば、おおよそこのような説明がなされるだろう。

 その一方で、研究者が大衆的に認知される職業として地位を得たのはそれほど昔のことではない。中世ヨーロッパではフィレンツェ共和国のメディチ家の庇護の下で活動できたレオナルド・ダ・ヴィンチのような数少ない例はあるにはせよ、一般的に研究者(ないし科学者)が独立した職業として確立されたのは、科学が社会にあたえる利益の多さが認識され、それが国家の発展のシステムに組み込まれるようになる19世紀以降であろう。欧州各国はアカデミーを設立し、科学者の交流を促進し、ジャーナルが創設され、論文を書いてそれを人類知としてアーカイブするというシステムが形成されていったのも19世紀末以降のことである。そのシステムは多かれ少なかれ1世紀半ほど経った現代まで継承され、研究者たちは日々活発に議論し、より価値のある問題とその答えを探し求め、自分が得た新たな知識を論文の形で出版する。論文のインパクトが大きければ大きいほど研究者として高く評価され、ときにはそれが契機となってより良い待遇が得られることもあるだろうし、自らの研究が引用されて新たな学問の潮流が形作られていくのはやはり研究者としては喜ばずにはいられないことのひとつではないだろうか。

 このように、研究者はある意味で自分の人生の少なくない時間や資源を全力投入して未知の領域を目指しているのだから、他人から少しでも注目されることは一般的に言って望外の喜びだろう。論文の引用数はひとつのわかりやすい定量的な指標となる。自分が汗水たらした苦労の結晶が誰にも回顧されずに歴史の中に埋没してしまうのは寂しいものであることは誰もが同意できることかと思う。しかしここで改めて問うてみたいのは、「研究はどれくらい注目を集めるべきか」 という問いである。この問いに至るまでの動機をもう少し敷衍したい。

 2004年の日本における国立大学の独立行政法人化以降、国からの運営交付金や国立大学における常勤教員職数は年々減少し、大学院生や研究職の待遇の悪さが喧伝され、目に見える結果として日本の研究機関から発表された論文が世界の中でますます存在感を低下させているのは、昨今メディアでも頻繁に取り上げられている。僕は大学で計算機科学を学んでいたが、社会的にもICT技術の要請は高まる一方で引く手数多だし、自分自身の将来とキャリアを真面目に考えるのであれば一般的には民間企業の方が金銭的な待遇もキャリアの安定感もまるで違うし、一大学院生としては研究職に進むというのはそれなりに覚悟が要求される選択であると言える。ところで、「日本の研究機関が世界における存在感を低下させている」というが、これはどのようなエビデンスに基づいているだろうか。多くの報道では、論文出版数であったり、引用数トップX%の論文数のような、定量的な評価指標、それも論文がどれだけ引用されたか、言い換えればその研究が注目されたのか、という点に着目されていることが多い。話は変わるが、今とある大学で教員公募がかかっているとする。そこではどのような評価基準に基づいて教員の採用・不採用が決定されるだろうか。もちろん教育歴だったり、将来的な研究や教育、社会貢献に対する抱負だったり、候補者の人となりは大きな評価事項である。一方で、公募資料を見るとよく目につくのが、h-indexのような出版論文の注目度だったりとか、過去に獲得した研究費だったりとか、ここでも(ある意味当然)候補者の研究がどの程度注目を集めているのかという点が採用基準のひとつになっていることは多い。つまり、より多くの注目を集めた研究は優れているし、注目を集めている研究がたくさん行われてきたのは優れている証拠である、という価値観が自明の理として前提とされていることが極めて多い。その点に少し疑ってかかってみたい。

 まず研究に対して投資する側の立場——国家や研究所、ときには民間企業であることもあるだろうし、そうした機関による支援は回り回って我々市民一人一人が支援していることにもなる——に立って考えると、よほどの慈善家でもない限りは無償で支援するということはあり得ないから、投資に対してリターンを期待するのは至極自然な道理だ。19世紀以降の大学が各国に設立されてきた経緯のひとつにも、自国の発展を促すために十分な技術と知識を国内に蓄えることが挙げられるだろう。そうした技術と知識は最先端の研究結果それ自身である場合もあるだろうし、技術者や研究者の頭脳である場合もあるだろう。実際、優れた研究、注目を集めている研究を発表している研究者がいる研究機関に外部からより多くの研究者が惹かれて集まってくるというのは自然なことだ。民間の企業研究所で開発した技術を社内機密とすることなく論文として公知化する動機のひとつにも、優秀な研究者を引き寄せることは挙げられるだろう。こうした観点からは、投資して新たな技術や知識が得られ、そしてそれらが大きな注目を集めれば、複利的により良い技術や知識が生まれていく。投資の効果はより大きくなり、投資者はより優れた技術や知識を溜め込んで発展を促すことができる。

 それでは技術や知識を生み出す研究者の側の立場ではどうだろうか。自分の研究が注目を集めるのは、まず何よりも自己承認欲求が満たされることであるのは言を俟たない。先述のように、過去の研究が注目を集めていればそれが実績としてみなされ、研究者としてより良い待遇やポストを得ることもできるだろうし、研究能力の証拠としてみなされれば研究費の獲得競争においても優位に経つことができるだろう。そうした研究周辺の即物的な環境のみならず、自分の研究が注目を集めることは研究の遂行自体の上でも大きな推進力となる。基本的に研究者という人種は自らの有限の人生では手に余るほど挑戦したい問題を抱えているものであるから、自分の研究が注目を集めれば興味を持った他の研究者や学生が自分の研究を発展させてくれるかもしれないし、それが回り回って自分が新しい学問の潮流を打ち立てられるかもしれない。そうすれば、自分ひとりではどうにもならない巨大な問いに対して、より大勢の研究者、より多くの資源を持って立ち向かうことができるようになる。

 ところが、どちらの立場に立って考えても、ひとつの大きな壁が彼らの前に立ちはだかる。それは、我々が生きる現実世界は有限資源のゼロサムゲームであるという点だ。そもそも論文を発表する場であるジャーナルや国際会議では論文の質と正当性を担保するために査読者によるピアレビューが行われるわけであるが、それゆえに無尽蔵に論文を再録できるわけではない。仮に論文の再録数をもって評価することにすると、上限に数の限りがある論文の再録枠を研究者間や研究機関間、国家間で奪い合う様相を呈する。実績があってどのような研究がコミュニティに受容されやすいかのノウハウがある研究者はより評価を得るようになり、経験の少ない研究者はなかなか大きな評価を得るのは容易ではない。Winner takes allの世界である。

 論文の引用に関してはどうだろうか。そもそも論文の引用とは、自分の研究にとって関連するこれまでの研究をクレジットしたり、直接の先行研究との関係性を示すために、先行者への敬意も込めて行われるものである。論文が引用される大前提として、引用対象となる論文が認知されている必要がある。そのため、大きく分ければ著者の周囲に近い研究を行っている研究者が一定程度いるか、あるいは研究トピック自体が十分に過熱している場合に引用されやすくなる。前者のケースに関して端的に言い換えれば、知り合いが多ければ多いほど論文は引用されやすいし、自分(たち)の研究を継続的に発展させていけばその過程で論文を引用することになる(勿論これは適切に行われない場合には自己引用となり、研究倫理の一端に抵触することがある)。後者に関しては、自分の研究しているトピックに十分なプレイヤー数がいることが前提となるわけだが、そのためいかにして自分の研究トピックに意義があって面白い課題が眠っているのかをアウトリーチしていくことは基本的な戦略になる。学会のチュートリアル講演などは若手研究者にとってはそのような研究グループの輪を広げていくチャンスとしても捉えられるだろう。いずれにしても、(少々直截的すぎるきらいがあるかもしれないが)自らと共通の課題意識を持った知り合いが周囲に十分いるかどうかがキーポイントとなってくるが、一方で研究者の人的資源も時間も限られている。研究コミュニティを形成する社会的活動が研究行為と同程度に重要であるケースが多いのは間違いないだろうが、それは研究トピックやグループの群雄割拠とも言える状況の引き金ともなりかねないのである。

 このように、研究が注目を集めることが研究の秀逸さを示す証拠のひとつであることは確かであるが、あまりにも特定の研究ばかりが注目されすぎるとそればかりに資源が集中し、研究コミュニティの多様性が逸失してしまう。別の言葉で言えば、研究コミュニティ内での自然淘汰が進行するのだ。この事態はアカデミアにおける「21世紀的な植民地主義」と言っても差し支えないかもしれない。元来19世紀的帝国主義を下支えする形で発展した科学研究が世界中の物的・人的資源を少数の国家で独占・分割してしまう植民地主義に導く一翼を担ってしまった反省として、より人類の平和や社会的善、人類知の純粋な追求のために尽くすことを目標として科学研究が行われてきたが、現代のアカデミアの中では皮肉にも研究資源の独占・分割が少数の研究機関などによって行われてしまっているという現状がある。これはある意味では仕方がないというか、有限資源しか存在しない環境下ではどうしたって持つものは持たざるものよりも強くなるのが自然の摂理であり、ダーウィニズム的な世界観を免れるのは非常に難しい。

 ここで21世紀において更に状況に拍車をかけている点について触れておきたい。20世紀まではいかにして領土やエネルギーといった物的資源や、労働力や軍隊規模といった人的資源を確保するかといった競争が行われてきて、そのような過当競争が導く悲惨な結末に関しては人類規模で幾度となく顧みられており、最近ではそのようなあからさまな資源占有に対する事前回避的なシステム作りがなされるようになりつつある。しかし、今世紀で情報処理技術の高度な発達に伴って顕著に見られるようになっているのは、いかにして人々から関心を集めてマーケティングを成功させるかということが重視される、所謂アテンション・エコノミーである。ここにおいては従来型の物的、人的資源に代わって、人々の関心自体が資源として独占の対象となっている。アテンション・エコノミー自体はインターネット広告からウェブメディア、SNS、ニュースなど、非常に幅広い場面において見られ、ご存知のようにいかにして利用者の関心を惹きつけて時間や金銭を消費させるかという点を追求してサービスがデザインされている。物的、人的資源の独占が難しくなった現代においては、関心というのは未開拓であり着目されている新たな資源であると言えるだろう。これは極めて恐ろしい事態であると言わざるを得ない。フランス革命を契機として近代的な自由市民宣言が行われてから、人類社会は少しずつ差別や階級を撤廃し、市民一人一人が自由であるようなシステムを築き上げてきた(今もその途上だろう)。しかし、ここで言う自由とは言論や思想などに対する権利として一見誰にも脅かされないもののように保証されているにも拘らず、極度に発達したアテンション・エコノミーの下では人々は関心に隷属させられ、潜在的には自らの意思をもって行動を決定できているとは言いづらくなっている。すなわち、市民の自由が一世紀前では予期しなかった形で蹂躙されてしまっているのだ。

 僕が指摘しておきたいのは、アカデミアもアテンション・エコノミーとは無縁ではいられなくなっているという点だ。いかにしてインパクトのある研究成果を残すか。引用数の稼げる論文を書くか。多くの大学院生や研究員を集めて大きな研究グループを運営するか。これらは部分的には広い意味での研究活動の上で必要とされる場面もあることは否定するところではない。しかし、こうした関心を引き集める行為が周囲の人間の自由な発想や興味を回り回って制約し、自身の利益追求に奔走する結果となっているケースも少なくないのではないだろうか。言葉を選ばずに言えば、これは現代的奴隷制とも見て取れるかもしれない。たちが悪いのは傍目それが周囲の人間の関心や時間を特定の対象に縛り付けているのかどうかが明らかではないことだ。ここで最初に提起した「研究はどれくらい注目を集めるべきか」という問いに対して即座に回答を与えることはしないが、まずは自らが関心に隷属していないか、他人の関心を無邪気に資源として消費していないか、そういったことに関してはときに立ち止まって振り返ってみる必要があるのではないだろうか。自省の念を込めてそのように思う。