読書録・2022年8月
8月はお盆前後にひどい風邪で寝込んでいて、あまり本を読む時間が取れなかった。無理をして読むものでもないし、体力と余裕のあるときに気長に読んでいければ良いと思う。
井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』(岩波文庫)
5月に読んだ河合隼雄の著書で度々登場していた井筒の名前がどうしても気になって、読み終わった後にすぐに購入して積んだ本。イスラームの世界観にどっぷりと浸かりこんだ井筒だからこそ、語る言葉とイスラーム観には大きな説得力があり、これも読んで全く後悔のない良い一冊だった。
イブヌ・ル・アラビーは、このような意味での「実体」なるものは世に存在しない、存在し得ない、と言う。すべては刻々に変転して止まないから、である。いわゆる実体も属性も、この点では少しも違わない。固定したものが在るように思うのは錯覚あるいは厳格である。一見、固定して動かぬように見える石も、その真相においては、燃える炎とまったく同性質であって、ただ、その不断の変転が我々の感覚に捉えられるか捉えられないか、という違いにすぎない。 (160ページ; 7月31日)
本作は全体を通して著者が専門とするイスラーム思想を紹介するものだが、特に東洋思想のひとつである華厳経とのつながりからイスラーム思想を多層的に捉え直している。イブヌ・ル・アラビー(「イブン・アラビー」表記の方が一般的かもしれない)は12世紀頃の中世イスラーム哲学者で、特にスーフィズム(イスラーム神秘主義)を開拓した人である。
この部分は、本作の第2章の題である「創造不断」の考え方がはっきりと現れている箇所である。世の中に存在する固定的な実体というのは実は幻想であり、本当の姿は世界全体が一瞬一瞬において創造され、そして破壊されることを繰り返す。その不断的創造の繰り返しが我々人間の認知できる粒度よりも細かいから、あたかも世界は連続的に存在しているかのように見える、ということだ。この「認知粒度ゆえにあたかも連続的に見える」というアイデアは、ユクスキュルの環世界の考え方にも見て取れる(3月の読書録で少々触れた)。この考え方の面白い点は、因果的世界観を否定しているところである。ニュートン力学的世界観では、あくまであらゆる実体は時空間的に連続的であり、次の瞬間の運動は微積分を用いることで正確に予測することができるとする。スーフィズム的立場でもそれを真っ向から否定するわけではないのだが、しかし普段そうした「微分的」思考・予測がうまくいくのはあくまで偶然でしかないと見なし、因果自体を仮初めの枠組みと見る。
河合隼雄の展開する精神分析においては因果性からの脱却がひとつののテーマであったから、このようなスーフィズムのアイデアは実に有効であるといえる。因果応報とも対立するという点では、同じ東洋思想である仏教的価値観とも対立するだろう。因果が人間に与えた思考の足枷の功罪を鑑みると、実に面白い発想の転換だ。しかし一方で、世界の連続性を否定したときに残るものは何なのか。プラグマティズムの観点からは何らかの意味で「役に立つ」世界観でなければそれを考える価値には疑問符をつけざるを得ない。本質的に非連続的な世界では運動の予測はおそらくほぼ不可能に近い。「創造不断」な世界では我々は因果の軛から逃れることはできるかもしれないが、同時に予測不能になった世界で我々はどのように生きていくべきなのか。その答えにスーフィズムの考え方の真の価値を求めるべきだろう。
カオスがアンチコスモスに変貌するのに応じて、コスモスの側にも特徴が現れてくる。もはやコスモスは、人間がそこに安らぎを見出す安全圏ではない。がっしりと確立された存在の秩序構造が、かえって人間を抑圧する統制機構、権力装置、と感じられるようになってくるのだ。コスモス、出口なき秩序空間、自己閉鎖的記号組織。人は、当然、それに反抗し反逆する。その反逆の力がアンチコスモスである。 (213ページ; 8月1日)
本作のタイトルである「コスモスとアンチコスモス」を回収する。概念としては、「コスモス」が美しい存在秩序によって保たれた安全的な存在空間、「カオス」が(あくまでコスモスと対立的とは限らない)存在秩序が確立する前の無秩序空間、そして「アンチコスモス」は井筒独自の用語だが、コスモスに対して敵対的に浮かび上がってくる世界構造のことを指す。
まずひとつ触れておきたいのは、コスモスの概念自体が無秩序や「反」秩序を想定するものであるため、この時点で禅的な総体的な秩序世界の見方と相反するものであるといえるだろう。
安全圏であったはずのコスモスが次第的に市民に対して牙をむく、というダイナミクスは、現代社会でもよく見られる構造であるように思う。なぜそのようなことが起こり得るのか。たとえばコスモスのひとつの例として挙げられるのは、ウィーン体制をはじめとする戦後秩序だろうか。しかしこうした秩序体系は戦勝国側が安全圏に留まれるように、或る意味で恣意的なひとつの価値観で作り上げられるものであり、それゆえに価値観の一元化が目指されることが往々にして起こる。ひょっとすれば安易に想像しがちな「秩序」そのものが価値の一元化を措定しているのかもしれない。それが次第に立ち行かなくなり反動が生じるということは、やはり世界は多元的であることの証左であると言ってもよいのではないか。安易に措定した一元的秩序を本気で見直すべきタイミングが訪れているように思う。
今ここにAとBという二つのものがあるとしますと、AはAであり、BはBであって(同一律)、両者はそれぞれそれ自体で独立に存在しており、AとBとの間には本質的に決定された区別の線が引かれていて両者の混同を許さない(矛盾律)。そう考えるのが我々の常識です。このような常識的存在論を、今私が問題としている型の東洋哲学は、たんなる表層的存在論であるとして否定してしまう。存在の深層に目のひらけた人から見れば、すべての存在境界線は人間の分別意識(…)の所産であって、本当に実在するものではない。つまり、第一義的には存在していない事物事象相互の境界線を、第二義的認識の次元で実在するものと思いこみ、しかもそれを第一義的認識と混同し、そこに作り出されるものの幻想を、そのまま第一義的存在リアリティの真相であると考える、それを「夢」と言うのであります。 (259ページ; 8月2日)
東洋思想が標榜する「東洋的無」の概念をアンチコスモス、すなわち東洋思想による存在解体として捉えたときに、我々の認識がどのように捉え直されるべきかについて論じた部分。人間の認知の(とりわけ西洋哲学的な)型は分類に根ざしている。これはアリストテレスの形而上学以来の思考の型として浸透している。だから人工知能を作ろうと思ったときに我々が最初の段階として取り組むのは、自然と分類器になってしまう。しかしある客体が振り分けられたカテゴリというのは主体が恣意的に導入したものであり、それが対象の「(絶対的な)本質」を捉えていると考えるのはあまりにも無邪気で危険である。ところが我々はしばしばそうした分類が物事の本質的な特徴を捉えていると錯覚し、その結果として対立や誤謬を生み出してしまう。それは東洋思想の立場から見れば、第二義的認識の次元における「夢」にすぎない。こうして第一義的認識に到達したと思い込んでいるコスモスを脱構築するアンチコスモスの立ち位置を占めるのだ。
このような分類は二元論に依拠しているが、二元論である以上、どのような価値によって二分されているかという点が常に問題になるわけで、あらゆる存在世界で唯一の価値が存在し、その下ですべてが二分されるというのはどう考えても不合理だ。一方で、二元論的分類によって我々は厖大な知識体系を構築することができたというのも事実であり、二元論が我々に与える大きな利益は無視できない。である以上、大事なのはいかにして二元論と脱構築を自在に行き来するか、単一の立場に固執せずにその場その場に適した見方を用いるか、である。これは禅が目指すところの世界観だと認識している。
ということはすなわち、禅は、一切の事物事象が無「自性」であるとする、ということにほかならない。そして無「自性」性こそが存在の真相だ、というのである。主体も無「自性」、客体も無「自性」。一切の「本質」的固着性は、ここにはない。 (400ページ; 8月4日)
「V 禅的意識のフィールド構造」の一節でありながら、「III コスモスとアンチコスモス」で引用した先ほどの259ページの一節を受けた続きとなっている。「自性」とは仏教用語である存在をそれ足らしめる本質や性質のことをいう。ロゴス的世界観では花は花、木は木、猫は猫であるというように「名」を与え、対象とその存在内容を固定的なものにし、その上で論理を展開し、世界を認識する。それだけでは本質は捉えられていないと禅は主張する。いや、厳密に言えば禅はロゴスを極端に嫌うから、「主張」はしないかもしれない。無「自性」的な世界の描像を自身の中に確立することで、初めて世界の本質が捉えられるのだという。
主・客対立的主体の構成する世界、と「無心」的主体に開示される世界と。上来、私はこれら二つの存在認識のあり方を対照的に、すなわち両者の根本的差違性に焦点を合わせつつ、描いてきた、あたかも両者が互いに全く異質的であり、離絶しているかのごとくに。しかしまた同時に私は、両者が実は互いに無関係なのではない、ということをも、叙述の途中で、機会あるごとに示唆してきた。互いに無関係どころか、本当は、両者の間には、ほとんど相互同定的ともいうべき緊密な連関があるのだ。 (409ページ; 8月5日)
井筒はここから主客対立による認識と無心的な認識の往来によって成立する禅の世界観について議論する。もちろんどちらが絶対的に正しいものの認識というわけではないだろう。ただあくまで、主客対立の世界観があまりにも先鋭化しすぎたために生じている問題が多いから、一度中立的になって両方の視座から多面的に世界を捉え直す機会が必要であるのは間違いないといえる。その意味で禅の見方が与えるものは有益であると信じている。ここから先の「フィールド構造」に関する議論は少々抽象的なきらいがあり、まだ完全な理解には及んでいないため、また読み返して挑戦したいと思っている。
ジル・ドゥルーズ著・国分/長門/西川編訳『基礎づけるとは何か』(ちくま学芸文庫)
ハイデガーの師であったのはフッサールだが、彼にあっては意識という概念は新たな意味を獲得している。意識はもはや内面性としては定義されない。フッサールにとって、意識とは超出として定義されるものだ。「意識とはすべて、何ものかについての意識である」。これが志向性の概念だ。 (37ページ; 8月7日)
志向性の概念はポパーが生命とは何かを定義する際に用いたと記憶しているが、その起源が少なくともフッサールまで遡るということは知らなかった。「超出」に関する哲学的な議論とポパーの議論の連関を踏まえて、もう一度デネットなどを読み直したいものだ。
主権者は「共同の自我」であり、「感受性を備えた生」である。一般意志とはこの生に対応する運動である。社会契約は主権者の形成のようなものであり、一般意志とは主権者が自らを保全する際の運動形式である。
社会契約はそれだけでもう一般意志である。社会契約は形式的な意志を規定する。契約はそれ自体において、意志を一般化し、形式化する。したがって主権者はすでに形式的な意志なのだ。このような一般化は個別意志を足し算して得られるものではない。 (243ページ; 8月31日)
ルソーの一般意志の概念は知りつつも、一般意志はどのように表出されるのか、そもそも一般意志は存在し得るのか、といったことは長らく疑問に思っていた。そんな疑問に対して、この箇所はある程度の回答を与えてくれている。そもそも一般意志と個別意志は性質からして違うものであり、個別意志が持つ「好み」のような性質は一般意志には見られず、一般意志は社会契約に従って純粋に善を求めるような存在であると。それは形式的な存在であるという。