Random thoughts in Japanese. All optinions are my own.

2021/10/30 (Sat.)

  • 2年ぶりに昨日はライブに行った。2年半前くらいにたまたまYouTubeで聴いてからすっかり好きになってしまったiriを生で聴けて、一番好きなWonderlandを生で聴けて本当に嬉しかった。ここ最近で一番積極的に嬉しかった瞬間だった。iriが「デビューして5年の間、何度もステージから降りたいと思った瞬間があった」と言っていて、僕は全然違う領域にいる人間だけれど心の底から共感してしまった。どんなに好きだったとしても何かを生み出すことは一筋縄ではいかなく苦しい過程が大半だ。そうやってもがいて出口を探し続けている同年代の人間を見ていると、自分もまだまだやれそうな気がしてくる。関西でもまたライブに行きたい。
  • 今日はこれも前から楽しみにしていた日本学士院の公開講演会に行ってきたのだけれど、こちらは期待していたほどではなく正直かなりがっかりした。蓋し講演者の方がご高齢でパワーポイントに慣れ親しんでいなかったとしてもそれは学術を伝える者として免責されることではないと思う。専門家向けの学会講演よりも一般向け講演の方が難しいのは火を見るよりも明らかなのだから、もっと専門外の人間からフィードバックをもらってスライドの流れや内容密度、前提知識の確認を行っていくことは怠るべきでないし、もしこれまでの業績で免責されると思っていらっしゃるのだとしたら、それはアカデミアと市民社会の相互信頼という貴重なリソースの食い潰しであると認識してほしいし、若い研究者をバカにしていると思ってしまう。それは自分の邪推かもしれないけれど。
  • ミュージシャンは音楽活動それ自体が市民社会へのアウトリーチであるのに対して、研究者は研究活動それ自体がアウトリーチになりづらい。しかしアウトリーチの成否が直接的に食い扶持に関わってくることを考えると、構造的に専門家の価値判断をクリアすれば(最低限学術的アウトプットとしては)十分であるアカデミアはやはり生活の保証感が大きい。だからこそ研究のための研究が生まれてしまうわけで、それは(社会の有限のリソースを無節操に消費しているという点で他人に迷惑をかけている=他人の自由を阻害しているという意味で)市民社会の自由に反する。本来的にはミュージシャンと同じ用に死物狂いで自分を社会に対してぶつけていかなければならないのだろうと思う。
  • 折角の休日に(期待していたほどでない講演だったことを確認できたことは貴重な経験とはいえ)少し嫌な気持ちになってしまったが、日記を書きながらiriを聴いていたら気持ちも落ち着いてきた。

2021/10/28 (Thu.)

  • 博論をついに埋めきった。現時点でPDFにして169ページ。ようやく肩の荷がひとつ降りた。博論提出まであと35日。

2021/10/27 (Wed.)

  • これほどまでにコンセンサスが取れないとは思わなかったし、家族の仲でさえこの様相だったら一般社会でコンセンサスを取るのなんて筆舌に尽くしがたいほど途方もないことだ。双方の価値観があっていないのだから、机上の理論では弁証法だとわかっていても、じゃあどうやって実践するのか。「弁証法の実践だ」と思えば楽しくなるのかしら。

2021/10/26 (Tue.)

  • メンタルの限界の前に体力の限界に近づきつつある感覚がある。最近はメンタルの方が先にやられることが多かったので珍しい。卒論前で同時に未踏をやっていて完全に首が回らなくなっていたとき振りじゃないだろうか。11月に入ればマシになると思いたいのだけれど。
  • ふと、チューリング帰着において帰着不能性の証明をどうやるのかわからないことに気づいた。チューリング帰着は帰着の可能性を示すことしかできない。P vs. NP問題に見られるように不可能性証明は枠組みとしては存在するはずで、このあたり計算量理論に関する理解の足りなさが露呈してきた。

2021/10/25 (Mon.)

  • 京都から東京へ。怒涛の10日だった。何よりも新居が決まってよかった。スケジュールに現実感がなくて、このタイミングで新居は決定させなければならなかったにもかかわらず、無事に決められたことに驚いてしまった。
  • 今日も相変わらず忙しく、山手線で移動しながらセミナーに参加する羽目になってしまった。良くも悪くもオンラインだと移動中でもセミナーに参加できてしまう。世界は便利になったのか、それともパンドラの箱を開けてしまったのか。
  • 価値観が噛み合わないことがないこと、波長が合うことの有り難さを噛み締めたりする。別にこれに限らない話だけれど、有り難いものほどインフラ化・空気に同化してしまうので、この価値を常に認め続けることが難しい。それでも忘れずにいたいもの。

2021/10/22 (Fri.)

  • 広島から京都へ。広島にはおよそ6日間滞在した。高校を卒業してからひょっとしたら一番長かったかもしれない。
  • SNS上でしか近況を知らない友人に対して心のすれ違いを感じていたのに久しぶりに会ってみたら意外と良いやつだった、ということがあるように、帰省していなかった間に親に対して(ないし親子の間双方で)不信感があったのが帰って喋ってみれば意外とわかりあえることがあるものだった。自分も意地はって家をあけていたのもあるかもしれない。もう少し早く帰ればよかった。
  • 「10分…!」企画も最高学年になってしまい、同期で残ってしまった野田さんとアウトリーチ活動の仕組み化に関する議論に(半月前くらいから)巻き込まれている。今日はなんと某企業の方と意見交換をするに至った。お互いD3であるというのにもかかわらず、あの人の熱意と行動力には舌を巻かざるを得ない。僕自身は話に乗っかかっているだけなので申し訳なくなってしまうけれど、これから先どこに流れ着くのか、気になるところではある。

2021/10/18 (Mon.)

  • 2年ぶりくらいに実家に帰ってきた。小倉の勉強会に参加したときぶりだ(余談だが2年も経っているのに2年も日記をつけているので残っているのに少し驚く)。
  • 父も本当に長らく会っていなかったので、話すことはいくらでもある。土曜も日曜も4時間くらい晩酌をしていた。

2021/10/15 (Fri.)

  • 一昨日3年以上気に入って履いていたグラビスの靴底に穴が開いているのに気づいてしまった。急遽靴底を修理してもらった。靴修理屋に行くのなんて初めてだけれど、こうやってお気に入りの靴を履ける状態にしてくれる技術には素直に脱帽する。この靴はストックホルムからエルサレム、ベルリン、パリ、エディンバラ、アナーバー、シカゴ、トロント、と一足で本当に世界各国の土を踏んできた靴なので、非常に愛着がある。自分の大学院生活を支えてくれた靴と言うのは大袈裟かもしれないけれど、そう思ってしまうくらいだ。

2021/10/13 (Wed.)

  • 数カ月ぶりの専攻講演会で、今日は加藤先生の話だった。ご本人が最近中心的に携わっている自動運転プロジェクト周りの話がメインではあったが、コンピュータシステムをどのように社会に受け入れてもらうかという点に関しては普遍的なものがあり、その一例として保険の形で信頼・責任を具体的にbreakdownするという話が特に面白かった。例えば機械学習を組み込んでいるシステムであれば、予め仕様策定の時点で網羅的にケースを想定しておき、そのケースでの学習がきちんと行われているのであれば、想定外のインシデントに対しても免責されるという考え方だ。
  • 思えば社会に科学がどう受け入れられるべきか、ということに関してはここ最近悶々と考えたり人と議論してきた話だが、アイデアと経験不足で結局人と人との議論でコンセンサスを取るというウェットな解決策しか思いつかなかった。保険で全て解決できるわけでは勿論ないけれども、こういったドライな解決策も選択肢の一つとして面白い。

2021/10/12 (Tue.)

  • 1ヶ月ほど博論を触る暇もなく論文を書いたりプレゼンをしていたが、そろそろやらねば具合の悪い段階に近づきつつあるのを感じる。しかし、まだ同時にやらねばならない仕事が積もっている。いつになったら落ち着くのか。

2021/10/10 (Sun.)

  • 母と会った。東京の感染状況が好転しつつあるので、久しぶりにカフェでゆっくりと話をすることができた。
  • 父の仕事の景況が思わしくないようで、あの人らしからず仕事のことで一人悩んでいるのだとか。還暦も見えてくる年齢になると、今の自分では想像できないような「絶望」があるんだろうというのは段々薄ら感じるようになってきた。歳を重ねるごとに皮肉なことに自分にとっての「社会」というのは(意識的に保とうとしなければ)ますます細まり、その孤独から強烈に自省を促される。傍目どんなに綺羅びやかな人生であったとしても、自省を強制されてなお肯定感を保てる人間というのはほとんどいないのではないか。
  • 自分はどのように立ち振る舞うべきなのだろうか。少なくともこういう話はちゃんと聞いて、そして考えた方が良い気がしていて、自分の中のラディカルな個人主義を、幾分か良い方向に修正できる気がしている。

2021/10/09 (Sat.)

  • 朝から散歩。今日はぶらぶら歩いてたら久しぶりに浅草界隈を歩いてみたくなって、仲見世通り周辺を眺めていた。
  • 昨日の「自分は哲学にどう関わりたいのか」という話、やはりどちらかといえば哲学からインスピレーションを得て計算機科学を推し進めたいという気持ちだと思った。僕のような青二才が哲学に対して貢献ができる自信はなくて、勿論哲学の問題が解けるなら面白いのだが、むしろ哲学2500年の歴史を援用すれば現状の計算機科学の(僕が感じている「数理パズル」的な)閉塞感を打ち破れるのではないか、という淡い期待感がある。
  • それと、折角昨日聞いたので科学哲学会の論文を眺めていて、「選択可能性と『自由論のドグマ』」というのが面白そうだったので読んでみた。現代自由論における非両立論(決定論と行為の選択可能性に基づく自由は両立しえない)に対して、これまで言われてきた行為の合理性やコントロール可能性の観点からの反駁を取り上げ、しかしどちらの立場も依然として「自由論のドグマ」、すなわち「自由であることは合理性とコントロールを専ら向上させる」という暗黙の了解に光を当てて異を唱えた、というのが貢献のようだ。最近読んでいた「現代思想」でも自由意志についてリバタリアンや両立論について取り上げられていたのもあって、思っていた以上に「わかった」気がする。問題を設定して既存の主張を並べて、そこに存在する欠点を取り上げるという流れ自体は、当然のごとく学問分野が変わろうと普遍的なアプローチである。

2021/10/08 (Fri.)

  • 素人身で哲学をかじっているうちに専門家に話を聞いてみたくなってしまい、昨日ついサークル同期だった小関くんに(それこそもう5年ぶりくらいに)連絡したら二つ返事で了承してくれて、今日早速話すことになった。この歳になって、じわじわと昔の知り合いの威力を感じつつある。
  • とりあえず面白そうな情報をたくさん聞いたので、まずはメモをする。レクシャーシリーズ「哲学とAIにおける対象世界モデリング」北大CHAINプロジェクト日本科学哲学会科学基礎論学会存在論・形而上学ワークショップ峯島 宏次先生
  • 教えてもらった資料をみて勉強しつつ、でも同時に、小関くんに指摘されて意識したこととして、僕は自分が「哲学のアイデアで計算機科学を進展させたいのか」「計算幾何学の観点から哲学を考えたいのか」はっきり見つめたほうがいいことに気づいた。今の段階ではただのちっぽけな趣味にすぎないし、別に哲学を勉強したからといって将来的に何かに役立てたいという打算心はあまりないのだけれど、自分の研究で目指す行く先が少し曖昧なように思う。
  • 加えて、哲学の世界に少しでも本格的に足を踏み入れるつもりがあるのなら、本気でその道の人間と同等の水準までキャッチアップしなければならない、と再認識した。研究というのはコンテクストを踏まえてこそのものであり、本当のブレイクスルーはその向こうにあるのではないか。計算機科学の一派は「既存研究を追うのに終始せず素人発想で」と言うが、ある程度の研究のコンテクストを踏まえない素人発想は本当に革新的であることは少ないし、仮にそうだとしても既存のコミュニティの人間との意思疎通を図るのが困難になるから、誰の目にも止まらないのではないか。今日の話とは段々関係なくなってくるが、この点に関しては議論したい相手が何人かいる。

2021/10/07 (Thu.)

  • 最近立ち寄ったどの本屋で買ったか忘れたのだが、目に入ってそのまま手に取った鈴木大拙「東洋的な見方」を仕事の合間に少しずつ読んでいる。まだ全然わからないことだらけなのだけれど興味がそそられる。基本は禅宗の思想がベースになっている(それは鈴木大拙自身の研究対象が禅だったというのも大きく関係していそうだが)ようで、色即是空に見られるように矛盾の受容を説いている。しかし、それだけでは西洋的弁証法と質的に何が違うのかわからない。この点が今の時点では一番興味を持っている。

2021/10/06 (Wed.)

2021/10/05 (Tue.)

  • 「10分…!」の次の講演をぼんやり考えている。ポアンカレ、ピアソンあたりの科学哲学をベースにヒュームの経験論や唯物論と観念論の対立、有限性と無限性から弁証法的に生じる認識、そしてポパーやスキナーあたりの行動心理学まで触れられたらいいなあと妄想したりしたが、どう考えても10分に収まるはずがない。ここからどうやって的を絞っていくか。
  • 岸田新総理が誕生した。正直あまり期待感は持てていないけれど、所信表明演説で「単年度主義財政の改革」に一瞬だけ触れているのが気になった。単年度主義は官学だと個人的には悪しき慣習であるところの予算消化を引き起こしている、百害あって一利なしの制度だと思っていたのだが、少し調べてみたら戦前の軍国主義を助長した反省から導入されたという経緯があるらしい。いずれにせよ、岸田総理も所信表明演説で一言触れただけに留まっているし、Web上でもさして政策に関する情報が見当たらないので、具体的にはあまり考えられていないのではないだろうか。

2021/10/04 (Mon.)

  • 半年前にひょんな雑談から始まったcontrastive learningの共同研究が無事に投稿できた!途中なかなかうまくいかなくてしんどいことも少なくなかったけれど、なんとかここまでこれた。また夏休みの宿題が一つ終わってすっきりした。

2021/10/03 (Sun.)

  • キルケゴール「死に至る病」を読み終わった。先月本屋を通りがかってたまたま手に取った一冊だが、自分史上では5年前に読み進めることを断念したフッサールに匹敵するほど難解だったのだけれども、4日間で一応最後まで目は通すことがかなった。読了後は想像していたよりも自分の中に残ったものが多い。特に個人的にはキルケゴールの一冊前に読んだ山口の主義と相似するところが多く、そのおかげか理解が進んだ節がある。たとえば、キルケゴールは自由と必然、無限と有限のように精神を規定する相対する概念を止揚する=自己を措定する力としての神を想定し、相対する状態のどちらかへ平衡状態を崩れている状態を絶望、非平衡への傾倒を行う意識のことを罪と呼んだわけであるが、これは山口で触れられていたように國分功一郎やスピノザの主張する「認識の自由」、すなわちキルケゴールの言葉では自己を措定する力を認識してそれに抗うことなく自己を基礎づけることによる絶望からの解放と相通ずる点が多いと感じた。このあたりの自己の規定に関してより深く知りたいと思った(おそらく人間とか人工知能を真に理解・実現するには超えねばならない山の一つであるように思う)。次に読むべきはスピノザだろうか。
  • 今回の山口からキルケゴールに読み進めたときには非常に強く実感したが、最近読書してて思うのは、本を読む順番によって思考の波が大きく左右されるということ。今回の話で言うならば、直前に山口を読んでいなかったとしたらキルケゴールの理解はここまで得られなかったと思う。これこそ千葉雅也が「勉強の哲学」で言っている勉強の偶然性なのだと思う。この偶然性があるからこそ、僕は同じ本を何度読んだとしても、本を読んだ順番によって得られる表象に多様性が生まれるので価値がある、と実体験を以ってして裏付けることができる。
  • 偶然いくつか予定が重なって、昼には研究室の同期と会って、午後は川原ERATOの成果報告にひっそりとお邪魔し(ひっそりのつもりだったが来場者名簿から捕捉されて2年ぶりに鳴海さんと会うことになった)、夜はサークルの同期とクラフトビールを飲んだ。明らかにコロナで失われていたのはこの友達との他愛もない会話だ。皆2年近くも会えていなかった人たちだが、それにも関わらず気負うことなく喋れる間柄が保てていることが素直に嬉しい。

2021/10/02 (Sat.)

  • 久しぶりに聴きたくなって、Donny McCaslinのSoarを聴きながらオトノヴァで本を読んでいた。なぜかSoarを聞くと大学3年生のときにピッツバーグにいたときのことを思い出す。たぶん向こうでヘビーループしていたんだと思う。ピッツバーグは初めて独りで長期海外滞在した場所だから思い出深いし、今でもあの曇りがちな摩天楼に囲まれた鋼鉄の街の町並みを思い浮かべられる。ともすれば流れていきがちな時間の中に、強烈な形で記憶という名の楔を打ち込む点で、こういう旅や滞在の経験が好きなんだと思う。

2021/10/01 (Fri.)

  • 一泊二日の房総半島の旅を終えて帰路につく。美味しい料理をいただいて、温泉につかって考え事をするのは何にも代えがたい幸福なひとときだ。今日は本格的に関東地方を台風が直撃していたが、幸い内房線が運転見合わせになる前に都内に戻ってこれた。
  • 内房線は(とりわけ君津以南は)ホームに屋根のない駅舎が多く、暴風雨の中で停車すると場合によっては車内にいても雨風に打たれる。Fred Herschをかけてキルケゴールを読みながら暴風雨の中を単線電車で行くのは、おかしいかもしれないが心躍った。時折車内に大雨が吹き込んで呼吸がうまくできない状況に見舞われているというのに。特異な非日常感が良いのかもしれない。大雨とローカル線の組み合わせは、2016年の年末に紀勢本線一周したときに、終電間際に大雨の中で新宮の手前で足止めを食っていたときのことを思い出す。あのときも真っ暗闇で大雨の中、ワンマンカーの中で運転手と二人、うまく言葉では言い表せないが高揚感があった。