Random thoughts in Japanese. All optinions are my own.

2020/10/31 (Sat.)

  • 今日は東陽町からお台場まで18kmの(!)サイクリング。シェアサイクルを初めて使ったが、レンタルも返却も決済も簡単、乗り捨てられるから帰りのことを考える必要もなく、そのまま温泉に入れて非常に良い体験だった。江東区・お台場の臨海地区のサイクリングは見晴らしもよく人も少ないので恰好。一人で過ごす休日でも全然またサイクリングしたいと思えた。

2020/10/30 (Fri.)

  • 引き続き某ベンチャーの知り合いと雑談させてもらった。知り合いは研究の下地が社内に整っていない状態からインフラを整備していったようで、かなり驚いた。。勢いはあるし、候補としてはかなり面白いと思うので、選択肢の一つとしてはぜひ検討したい。
  • 昨日はアカデミアの社会的責任についてぼんやりと考えていたけど、よく考えたら企業の社会的責任もよくわかってない。闇雲にお金を稼げば良いわけではないのはそうで、では何を果たすべきなのか。シーズ開拓で社会に期待感を与えて投資の呼び水を差すのは、社会的責任と相反する行為なのか?やっぱり何もわかってない。

2020/10/29 (Thu.)

  • 某先生と博士後の進路について雑談をさせてもらった。これといって自分の中で選択肢が狭まったわけではないし、たぶんこれからも狭まることはないと思うけど、PIがどういった考えて管理職についているのか、その意見の1つを聞くことができたのは良かったかもしれない。
  • (待遇さえ悪くなければ)某大学でポスドクをやるのは割とありだよなあ。自分としてもまだやりたい研究はあるし、ポスドクなら裁量の自由も大きく、任期が切れた後にそのままベンチャーなんかに出ていくのも面白いかもしれない。いずれにせよ、自分がどういうキャリアを歩んでいくのか、最終的にはたぶんその場その場でしか判断できないんだろうなあ。
  • 先日、個人のプレイヤーが社会的リソースだけを消費して持続的ではない社会活動を繰り返すことに対する辟易感について述べた。アカデミアのジョブホップもともすればこれと構造が親しい。他方、個人が自分のやりたいことをやれる前提でより良い待遇を求めて転職するのは自然なことだとも感じる。とりわけ米国のソフトウェアエンジニア界隈のそうした風潮は(少なくとも外野から見ている分には)健全に思う。この二者のどこに自分の感情のギャップが存在するのか。
  • 源泉の一つは、社会的責任だと思う。個人が社会的リソースを消費するのを嫌悪するのは、社会的責任を果たしていないからだ。社会的責任を果たしているのであれば、それに見合った対価を社会が支払うべきだ。これが社会契約のあるべき姿だ。
  • これを踏まえると、アカデミアの社会的責任とは何か、という点がまた頭をよぎる。ちょうど今週の科学コミュニケーション論でそうした話が取り扱われた(余談だが、自分のランダムな思考、読んだ本、雑談、講義といった別々の情報源が、まさに点と点が繋がるように結びついていてエウレカと叫びたくなる瞬間だ)。基本的には人類知の開拓と蓄積、質管理、そして社会に対する応答責任だろう。この辺りは自分で熟考する余地があるが、いずれにせよ社会的責任を意識していく必要がある。

2020/10/28 (Wed.)

  • 友野「行動経済学」を読み終わった。プロスペクト理論あたりは読んだ記憶があるので復習になったのだけど、後半の互酬性や協力行動あたりの話は全く記憶にないので、前回は最後まで読んでいなかったのではないか。
  • 処罰の導入によって生まれる協力行動や、互酬人と経済人の相互作用によって経済人が利他的に振る舞ったり互酬人も利己的に振る舞ったりするモデリングが非常に面白かった。自分としてもコミュニティ内での協力行動をどのように誘発するか、は自分も実利的に興味があるので、このあたりの知見は眺めているだけで楽しい。
  • 一方で、著書全体を通して個々の数理モデルや心理学的・脳科学的知見の羅列に留まっていると感じる箇所が少なく、よりprincipledな行動原理が知りたいと感じた。そのあたりはおそらく自然淘汰だとか、群淘汰的な観点から精査する必要があるのだろう。本書でも少しだけ触れられていたが。

2020/10/27 (Tue.)

  • 研究室の少し意外な話を耳にした。また研究室の雰囲気が変わりそうだ。
  • 5年も同じ研究室にいると人もどんどん入れ替わっていく。来年は内部から博士に進学する人もいなさそうだ。ほとんどの人はせいぜい2、3年程度しか研究室にいないので、他人を気にできるような人はなかなか出てこない。対して学生が多すぎて指導が行き届いていないので路頭に迷っている学生も多く、少しくらいは気にかけるようにしているが、僕がいなくなったらどうなるんだろう。できるだけ面倒を見てくれそうな後輩を育てようとは思っているけど、なかなかうまくいかない気がする。
  • まあそもそもこれって博士学生の仕事ではないよね、というのは間違いない。一方でコミュニティに所属する一人としてコミュニティが盛り上がってくれたほうが嬉しい気持ちがある。いまは善意でやっているけど、後輩にとって助けになっているのだろうか。別に全く恩を売りたいわけでもなく、単純に自分が居心地のいいような、にぎやかな研究室にしたいだけだけど、今のところその気配はない。僕がこれ以上やる必要はありますか?

2020/10/25 (Sun.)

  • 週末に色々人と会ってみたりしてもピンと来ることが少ない。自分が本当に一緒にいたいと思える人間はやはりそう多くない。
  • 最近は雨がちだったので、週末は天気がよく清々しかった。午後は日比谷公園でのんびり本を読んでいたりした。

2020/10/23 (Fri.)

  • 自動車関連の某社の人事の人とオンライン面談をした。向こうから声がかかってきたので少しびっくり。面談に先駆けて自動車業界で進むMaaS周りについていろいろサーベイしていたけれど、とても面白い。技術だけでなく法整備や社会の形、人の新しい価値観まで、幅広い領域にまで波及する、まさに100年に1度の改革だ。
  • 他にも少しこちらからコンタクトを取って数カ所で面談する機会を作ってもらった。就職するのももうすれほど遠くはないのだな。

2020/10/22 (Thu.)

  • 自分のことがつくづく嫌になる。人にやたらと厳しいし。ただの返事すれば良い案件に1日も音沙汰がない人達がこうもいるとイライラしてしまう。苛立ったところで何かが変わるわけではないのに。
  • 自分の領分でないところまで出しゃばって気まずい。出る杭は打たれる的な居心地の悪さを感じる。
  • 蓋し自分の周囲の人間はこんなに気にしていないかもしれないけれど、延々と自省してしまう。疲れる。
  • 旅先でこんなことを考えるのも勿体ない。これから東京に帰る。自分自身のやりたいことに打ち込んで気を紛らわせたい。

2020/10/21 (Wed.)

  • 科学コミュニケーション講義の日。今日は科学が社会で果たす役割に関する話。咀嚼して自分なりの見解を残す
  • 科学の果たす役割は歴史的に4つの期間で変遷している。17世紀までの前史時代では宗教・哲学から発展した君主の権威付け、18世紀では科学自体の純粋性を追求しコモンズ化を突き進むヒューマニズムの発露としての役割、20世紀までは帝国主義に結びついた国家の発展における効率化・合理化、現在は市場経済に対する供給の下支え、と大雑把に分けられそう。
  • ほとんどの時代を通じて科学は他社利益的であったといえる。特に19世紀以降は帝国主義・資本主義の蹂躙にしたがって、その枠組みの中で敗北すれば国家やコミュニティの衰退を意味するから、(それこそ自己保存的に?)他の集団より抜きん出るという目的志向の科学だった。少なくとも、国家レベルで認識している「科学」とはそうだろう。
  • この歴史を踏まえると、結局科学は自らの目的を外部委託していることになる。どうしても生計を立てるためには研究費を獲得しなければならないので社会への貢献を述べる必要があり、ここはダブルスタンダードで苦しいところではあるけれど、目的ないし存在意義(「なぜ科学を追求するのか」)が空虚になっているように感じられた。
  • ところで歴史的に少々異彩を放っているのは18世紀のコモンズの時代だ。この時代は特に英仏(普露伊)のアカデミーが隆盛を極め、人間の崇高さの向上を標榜した「科学のための科学」が正当化された。これは自己利益的な科学で、個人的にはどうやって当時の科学者が生計を立てていたのかは気になるところだ。

2020/10/20 (Tue.)

  • 初宮崎上陸!日南線からは圧倒的に田園風景が広がるし、青島の海岸線や海の色は綺羅びやかだし、ただ景色を眺めるのにはとてもいい場所だ。部屋からは青島海岸の絶景が一望できて、既になんの文句もない。
  • 伊丹に行く途中の高速バスに乗っていて、ふとミシガンのデトロイト空港の見知らぬ土地でバスに乗っていたときを思い出した。空港や高速道路周辺は独特の雰囲気があって、得も言われぬそわそわとした気持ちを呼び起こす。そういうのは嫌いじゃない。

2020/10/19 (Mon.)

  • 朝から論文数本に目を通して雑務を片付けメールを送りセミナーに参加する。研究として進捗があるわけじゃないけど、こういう地味なタスクをこなせた日は自己肯定感が高くなる。
  • しかしそろそろAISTATSの査読もはじまる予感がするし、雑務がどんどん降ってくる未来が見えつつある。キャパオーバーしないようにコントロールしつつ、新しい研究をはじめよう。ワクワク感がある。
  • 明日からは宮崎に行く。はじめての宮崎で、海を眺めながら論文でも読もうかと思っているのでとても楽しみだ。

2020/10/18 (Sun.)

  • 今日は打って変わって日差しの暖かい一日だった。堀川通や京都府庁あたりをぶらぶらしていた。良い散歩日和。
  • 最近少し頑張って研究室のSlackで積極的にコミュニケーションを取るように心掛けていて、その成果かどうかはわからないけど、他の人もじわじわとパブリックに発言をするようになってきている(?)。できるだけオンラインでもコミュニケーションの敷居を下げていきたい。

2020/10/17 (Sat.)

  • 10月のまだ中旬なのに冬なのかと疑いたくなるほど寒い。一日中雨の中、京都まで来た。
  • そういえば1年前はちょうどミシガンに着いた頃だったなあ。懐かしい。慣れない土地に住むべく辿り着いたときの浮遊感はいつになっても慣れないし、不思議な気持ちになる。

2020/10/16 (Fri.)

  • 締切をまた一つ乗り越えた。とはいっても、昨日は実はほとんど研究室のネットワーク設定をやっていた。今日でなんとか収束した。論文の推敲は結局ほとんどやらなかったけど、それよりも大変だったかもしれない。
  • そういうわけで昨晩は自分の打ち上げのカモフラージュ(?)に、研究室の最近入ってきたメンバーを数人呼びつつこじんまりと歓迎会みたいなのをやった。たまたま5人がB4、M1、M2、D1、D2で、自分もだいぶ時間が経ってしまったなあと思うなど。会うのは半年も経つのに初めてなメンバーもいたけど、呼んでみればまあみんなで盛り上がったりもするし、しかしやはり新しいメンバーから声かけたりするのは難しいだろうし、オフラインオンラインかかわらずもっと気軽に話しかけたりできるような雰囲気にできたらいいんだけれどな。

2020/10/14 (Wed.)

  • 定理の証明を念のため1ステップずつ確認しはじめたところ、意外な抜け穴があることがわかった。なんとCantor関数という、連続で至るところ微分可能でかつその微分係数が0にもかかわらず、f(0)=0かつf(1)=1な関数があるらしい。この関数、一様連続ですらある(絶対連続ではない)ので、適当に連続性を仮定しようとすると本来は含まれててほしい多項式関数も弾かれてしまう。なんという病的な例なんだ。
  • というわけで締切まであと1日。明日はひたすら推敲だ。

2020/10/12 (Mon.)

  • 日本学術会議の話は「内閣府は説明しろ」「説明がなされない限りでは学問の自由の侵害について議論の余地はない」「学術会議自体の問題は別の話」で終わり。やたらと感情的になっている人が散見されて(しかもそれがメディアやSNSで増幅されて)本当に良くない世の中だ。
  • 論文執筆は(嵐の前の静けさを予感させるほどに)落ち着いた。本当に落ち着いていてほしいが。2週間前に比べてすんなりと終わってしまい、残りは証明を念の為に確認してひたすら読みやすく説得力が増すように推敲するのみ。あと3日。

2020/10/11 (Sun.)

  • 日曜討論を眺めていたら不妊治療の話だった。実は新生児の15人に1人が不妊治療で生まれたとか意外性のある話はあったけど、新政権がやたらと不妊治療を推すのに違和感を感じる。それは少子化対策に必要だろうけど、不妊治療に限らずどの政策も一本槍のように感じられて政策に軸がない。こういうポートフォリオ的な政策はイデオロギーの欠如の裏付けのように感じられて不安に感じる。
  • 話は少々逸脱するが、少子化に見て取れる経済・社会的理由からの出産意欲の低下や、反出生主義など、消極的か積極的かにかかわらず人間というのはなぜか自己保存衝動が十分に強くないように見える。これが社会制度や文化的なものなのか判断は付かないが、いずれにしてもよくここまで種が絶えずに繁殖できたものだと思う。いや、しかしやはり子供は途上国では重要な働き手としてみなされているから、養うお金よりも稼げるお金の方が大きいとみなされているからこそ、そうした社会では出生率が高いわけで、そうではなくなりつつある先進国的価値観の元で自己保存衝動の低下が見られているのだから、やはり文化的な要因なのだろうか。種を繁栄させようとした末に自己保存衝動が低下するとは、いやはや皮肉なものだ。
  • とある記事を読んで前から気になっていた西浅草を散歩した。東本願寺の周辺だ。東本願寺の門前に広がるバラック平屋も都心の景色としては相当異様な光景だったが、その横のブロックでは通りから全く見えない密集バラックがあって異世界感があった。本当は奥まで踏み込みたかったが、夕暮れ時で暗くなってしまったのでまた今度。

2020/10/10 (Sat.)

  • 昨日の話、企業活動におけるノブレス・オブリージュみたな話だな、と後から感じた。だとすれば、その動機はどこに根ざすべきなのか。
  • 統治構造におけるノブレス・オブリージュは封建的政治からの脱却をエリート達が自ら希求した結果だという話を以前友人とした。

2020/10/09 (Fri.)

  • 某P社や某O社などについて、社員が高待遇を享受しながら高水準の同僚と働けるのはこの上なく魅力的だけれど、会社としてのビジョンが見えないのはかなり問題だよね、という話をした。経営陣がビジネス化すべく尽力しているのは多少内情を知っている身としては理解しているけれども、この手の話は残念ながら結果がすべて。社員にそういった意識が行き渡っているかというと否。それは新卒採用されている人たちを見ててもわかる。いまは高技術力を以ってして期待感を煽り、VCや親会社から投資を受けることで会社を回すというのも一つの戦略かもしれないけれど、どう考えてもサステイナブルな会社経営とは思えない。より経営的視点を持った人間を取り入れるかというと、これは僕の邪推だけれども、おそらく自らの技術に対して矜持を持つ彼らはその選択肢を取らないだろう。そうなれば今後5年はともかく、10年は保たないかもしれない。
  • 彼らはそうして経営が立ち行かなくなると各々離散していくのだろう。彼らはそうだ、並大抵の技術力の持ち主ではない。だから然るべき立ち位置に収まっていくだろう。個人のプレイヤーとしてはそうやって既存のリソースを消費して橋渡りしていくのが最適行動なのかもしれない。
  • 「結構社会正義的視点からキャリアを考えてるんですね」と言われた。そうかもしれない。そうして(意識的に無意識的に)個人の利得を最大化する行動を取る人間を見ていると非常に嫌悪感を覚える。理由はわからない。最近はESG投資なんてのが流行っている。結局は企業にとってある種の「評価値ハック」にすぎないだろうけれど、こうした「既存リソースの消費行動」と照らし合わせてみるとないよりはマシの評価値に見えてくる。ESGなんて最初に言い出した人間も、こんなことを考えていたんだろうか。
  • 数日前から友野「行動経済学」を再読し始めた。元々は体制下での大衆行動に関する理解を深める助けになるだろうと思ったからだ。当該書曰く、人間は理想的な「経済人」とは異なり限定的合理性しか持ち合わせず、必ずしも個人の利得を最大化するとは限らず場合によっては利他的な行動を取ることさえあると。それを聞くと「経済人」が憎く思えてしまうのは、僕の僻みだろうか。
  • そういうわけで、今日は急遽ポスドクの先輩の送迎会的な集まりを開くことになった。個人的にもパリは近いうちに再訪したいし、大変な情勢下ではあるけれどもまた会えることを祈っている。

2020/10/08 (Thu.)

  • 是々非々的な新自由主義はイデオロギーと言えるのか、イデオロギーの欠如なのか。場当たり的に穴埋めしていくように政策を打ち出すならイデオロギーの欠如だろうし、そうではなくて何か一貫した価値観があって、それに従って取捨選択をして政策を打ち出しているのならそれはイデオロギーなのだろうけれども、第三者から見るとどちらなのか見分けがつきにくい。
  • どちらかといえば携帯料金の値下げのように大衆迎合しながらアベノミクス的資本主義的観点の政策を継続するのであれば二律背反だし、CPI(消費者物価指数)も当然低下するので要領を得ない。その意味ではイデオロギーの欠如かもしれない。
  • しかし、必ずしも二元論的にどちらかに舵を切る必要はあるのだろうか。ある種の「ご機嫌取り」を行うのは施策の上でも必要なのではないか。それはイデオロギーの欠如なのだろうか。

2020/10/07 (Wed.)

  • サイエンスコミュニケーションの講義に出てみた。本当は大学で開講だと思っていたんだけど、やはりオンライン開講になってしまったので物哀しい。講義自体はオムニバスらしいのでまだよくわからないけど、初回はサイエンスコミュニケーションの役割についてグループディスカッションして、制限時間で意見をまとめる必要もあってアドレナリンが出た。
  • サイエンスコミュニケーションは発信ばかりに着眼していたけど、大衆からの要請を逆に受け取る方向のコミュニケーションに対する視点が自分には欠けていた、というのが大きな気付き。

2020/10/06 (Tue.)

  • コミュニティ運営は難しい。コミュニティの維持のためには構成員が(必ずしも自分の利益になるわけではない)仕事を分担しなければならないけど、そもそもそういう仕事が存在することを認識できない人間もいるし、そういう人間は往々にして他の構成員がコミュニティを維持するために犠牲を払っていることに気づかない。そういう人間には直接言うしかないんだろうなあ。他人のことを謗っても仕方ないので、自分がそういう配慮の欠けた行動をしないように気をつけるしかない。
  • 論文は埋めたが要校正な箇所が依然多い。10日を切っている。いつもこうなる。

2020/10/05 (Mon.)

  • 日本学術会議の任命問題、燃え上がっている。学問の自由が侵害だとか、政府の諮問機関なら内閣の任命権行使は正当だとか、学者団体も労働組合みたいにボランティアにしろだとか、いろいろな声が飛び交っていて言葉にならない違和感を感じる。朝のワイドショーでも松宮氏と橋下氏が先日の米大統領線討論会ばりの(見るに堪えない)激論を交わしていた。両者とも自分の主張の正当化に誇示していて聞く耳を持っていない。
  • この違和感はなんだろうなあと思っていたところ、とある大学教授のブログ記事で述べられていた意見が腑に落ちた。曰く、「現代の世界を分断しているのは、イデオロギーの対立ではありません。イデオロギーと、イデオロギーの欠如との対立です。」と。
  • この件に関しては官邸の任命拒否の真意は明かされていない。明かされていないからこそ十人十色の解釈が可能である。そのため任命拒否の真意をみなが勘繰るし、真意は結局のところ不明なので拒否権行使の妥当性について各々の意見をぶつけ合う。個人のイデオロギーの衝突が起こる。ここで大事なのは、真意がわからないゆえに(だって議論のしようがないから)論点が逸れざるを得ず、全く関係ない土俵でただイデオロギーの衝突が起こって消耗されているという点ではないかと思う。
  • 偶然ポール・グレアムのエッセイを見つけた。世の中の中道派 (moderate) には "on purpose" な中道派と "by chance" な中道派がいる、ということ。"on purpose" な中道派は左派を見ては辟易し右派を見ては辟易し、「反対に反対する」姿勢を取ることで結果的に中道になる。一方で "by chance" な中道派はある論点に関してはリベラル的かもしれないし、別の論点に関しては保守的かもしれないし、平均すると「たまたま」中道になっている。イデオロギー的観点からは後者の方が軸があり、前者には軸がない。
  • "by chance" な中道派はともすれば最もよく考えて自分の軸を表明している人たちだけれど、施政側からすれば "on purpose" な中道派が増えるのが最も楽だ。なのでイデオロギーを対立させて消耗させ、結果的にイデオロギーを持たない大衆を作り出す。そんなことが起こっているのではないか、と上記2つのエッセイを読んで感じてしまった。
  • 今回の学術会議の件は、イデオロギーの衝突をわざと引き起こそうとしているのかどうかはわからない。真意が何もわからない。何もわからないので結果的にイデオロギーの衝突が「無意味な戦場で」発生する。そして迎合的な大衆だけが残る。これは本当に怖いことなのではないか。僕はわざとそうした衝突を引き起こしているのではないと信じているけれど、説明責任を果たさずに逃げる背景にはこんな未来が待っているのではないか。
  • 以前、政権評価における邪推の跋扈について触れたことがある。これはある意味では説明責任の果たされなかった結果の、各々のイデオロギーの先鋭化の結果とも読み取れると思う。政治には社会の「こうあるべき像」が必要不可欠だ。なぜなら必ず取捨選択が迫られる以上、焦点を当てる対象、切り捨てる対象を明確化しなければならないから。であればイデオロギーが明確になっている人たちは幾分かマシかもしれないと思ったし、自分のような "by chance" な中道派の負う罪というのは小さくないと改めて感じた。そして大前提に説明責任を果たさない重大性を再認識した。

2020/10/04 (Sun.)

  • 今日は一日中家にこもって、(本当は論文執筆を進めようかと思っていたけどやる気を失ったので)寝たり料理したり本を読んだりしていた。昨日疲れた分、こういう一人の時間は落ち着く。
  • 「ハプスブルク家」読了。「わが闘争」が幾分読みづらかったのもあって、こちらはあっさりと読み終えた。700年余りの歴史を語るに際して緩急とフォーカスがしっかりしていて、読んでいて楽しい。紙数が限られてるのもあって、周辺の歴史の経緯に対してまだまだ知りたいことが残った(神聖ローマ帝国成立の過程、ブルゴーニュ公国の割譲、スペイン系ハプスブルク家消滅後のスペイン王国、三十年戦争の推移など)。
  • 「わが闘争」では19世紀のハプスブルク帝国の堕落が痛烈に批判されていたけれど、7世紀にわたる多民族国家故にどうしようもない感じがある。16世紀のウィーン二重結婚によりハプスブルク帝国が隆盛を極めると同時にいずれはボヘミア人、マジャル人と揉めることになるのが運命づけられていたとしか言いようがない。帝国最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ帝の意欲的な行政にもかかわらず降りかかる不幸を見ているとなんとも言えない気持ちにはなる。
  • 積んである本を突然手にとって読んだり、再読するのはとても楽しい。読みたい本はいくらでもあって時間が有限なのがもどかしい。

2020/10/03 (Sat.)

  • 論文執筆に疲れたので今日は一日銭湯行ったりビールを飲んだりしたけれど、週中で夜なべをしていたせいかすごく眠かった。友達とたくさん喋ったりしたけど、今週末は疲れてしまった。当分人には会わなくていい気持ちになった。

2020/10/02 (Fri.)

  • 意識が高まっているので、現役官僚が政策立案の経験について語る講義に顔を覗かせてみている。今日の講演者はお世辞にもあまり講義が上手ではなかったけど、多少なりともニュースで触れる行政とは違ったレイヤーから話を聞けたのは良かった。経産省の人だったが、安倍政権下で日米同盟ばかりが世間的には強調される背後で対EU関係の改善がかなり図られていた(例えば対EUのEPA締結や、GDPRを前提とした個人情報の相互提供に関する施策など)ことは知らなかったし、自分の見識を広めつつ官僚の主観フィルターを覗いてみる点では面白いかもしれない。
  • 平野・将積訳「わが闘争(上)」を読了。読み始めてから足掛けほぼ1ヶ月かかった。訳本特有の「原語の言い回しが直訳されてもよくわからない」現象で読むのには非常に苦労したけれど、非常にためになった。読んで良かった。
  • 序盤は20世紀初頭を生きたヒトラーの目線を通した当時の世界観が綴られていて、歴史書として普通に楽しめた。オーストリア帝国の混沌にはずっと惹かれていたし、まだ知らないこともたくさんあったので、いかにして各構成民族がナショナリズムを高揚させ、それによって相対的にドイツ人の立場が没落していったのか、というのが痛烈に描かれていて勉強になる。
  • またドイツ国家としての没落の過程で、多数決や民主主義、ジャーナリズムに対する痛烈な批判がなされており、その原因としてドイツ人特有の生真面目さや責任感の欠如、それを生み出した19世紀のドイツ教育の問題などが指摘されている。このあたりは戦前のみならず現代日本にも依然根深い問題だし、個人的にも多数決的民主主義は素直に受け入れることができないでいるので、制度の問題なのか、はたまた教育の問題なのか、考察の材料になる。
  • そして避けては通れないのが優生思想だ。そもそもの着眼点は国家とはなにか、人はなぜ生きるのか、という問題から始まっており(ヒトラーは自己保存衝動に結論を見出している)、そこからアーリア人の文化的優越性や、ユダヤ人の社会構造に対する「ハック」を指摘し、優生思想的主張を述べている。国家や人が生きる意義に関する部分は一定程度の納得感があるだけに、後半の民族的価値に関する主張は個別事象の一般化には論理の飛躍を感じずにはいられなかった。それゆえに、彼のナショナリズムに照らし合わせると当時それだけ感情的になって性急に結論づけざるを得ないほど、彼が目にした社会情勢が耐え難いものだったのだろうか。
  • いずれにせよ、歴史、哲学、政治、経済、芸術といった幅広い分野に対する好奇心を掻き立てられるような一冊ではあった。下巻は読むかどうか今の時点ではわからない。とりあえず数年本棚に積んである江村「ハプスブルク家」を読んでみようと思う。

2020/10/01 (Thu.)

  • 締め切りまであと2週間。とりあえずページはほとんど埋めたけど、これから記法や数式の細かいところを直していくのが地味に億劫。早く終わらせたい。
  • なんと2月の週末に銀山温泉の予約が取れてとてもテンションが上がっている!月跨ぎに新しく予約可能な日程の部屋が予約サイトに公開される前に、電話だと予約できてしまうことがわかったので、予約激戦区の温泉宿は電話予約が良いという知見を得た。もう論文なんて書いてないで早く温泉旅行に行きたい。
  • しかし、締切直前の執筆モチベーションを保つのは存外に難しい。既に自分は内容を理解して飽きてしまっているので。一方でスライドを作るときは細部のクオリティを上げるのに結構凝るタチなので、同じような気持ちを持って取り組むのが良いのかもしれない。