多様性について


 昨今の社会では「多様性」というキーワードが頻繁に取り沙汰され、SDGs のひとつの目標として「Diversity and Inclusion」も含まれているほどである。自分は理系、その中でも情報系の研究コミュニティに所属しており、関係者が心血注いでコミュニティのジェンダーバイアスの解消に奔走していて状況は少しずつ好転していると言えなくもないが、しかし依然として多様性が大きく欠如したコミュニティであることは認めざるを得ないだろう。また、アカデミアでは国際性もひとつの重要な指標となる。研究グループに所属するメンバーの出身の多様性が高いことはより幅多くの人々に対して学問の門戸が開かれているという社会的シグナルになり、卑近なところでは大学ランキングのスコア算出にも組み込まれており、やはり国際的にも非常に重要視されている指標である。半ばバズワードと化しているとも言えなくもない「多様性」だが、いずれにしても現代社会で生活している以上はもはや多様性とは常に背中合わせであり、意識せずに生きていくことは不可能だ。ここで問うてみたいのは、そもそも「なぜ社会構成が多様であることが望まれるのか」という点である。

 歴史的には社会の多様性が意識され始めたのがいつになるのか、その源流をたどることはなかなか容易ではないが、少なくともアメリカの公民権運動は過小評価グループ(underrepresented group)が「平等」に社会参画することを目指した活動であるし、自由選挙制度は参政権にバックグラウンドチェックを設けない点では少なくとも「平等」な政治参加を促す制度設計であると言えるだろう。歴史的にはそもそもコミュニティへの参画の機会平等すら与えられていなかった時代が長く、「平等性」の達成が「多様性」に対して先行する構造になってきたが、一方で機会平等が担保されたとしても必ずしもコミュニティ構成が「多様」になるかどうかは保証されない。そのため、「平等性」を機会平等として捉えておくと、(やや紛らわしいが)ここで想定する「多様性」とはコミュニティ参画の「結果平等」であると対比的に捉えることができる。機会平等と結果平等は多分に異なる概念であり、多様性を議論する上では機会平等が与えられたもとで結果平等がもたらされていない現状を分析するのが重要な論点となるから、本来は厳密に議論仕分けるべきであろうけれども、ここで私が関心を持つのは(機会にせよ結果にせよ)「平等が良いとされる根拠」であるから、この差異はひとまず措いておく。

 さて、しばしば見かける言説として、「女性ならではの発想を取り入れて理系学問の視野を広げるべきだ」といったものがある。「理系学問」の箇所は「会社経営」といった任意の人間の社会活動に置き換えてもらって構わない。私はまずこの言説を2つの観点から反駁したい。まず、「女性」といったグループで過小評価グループを括っている点である(「女性」でなくても任意の過小評価グループでもよい)。あるラベルをつけて主体をグルーピングする行為は、極端に言えばグループ内の異なる主体の個性的差異を、いまこの場での興味の対象になっていないからという理由で排除・無視する所作である1。「グループ A の結果平等性を高めよう」という目標を無思考的に受け入れると、結局のところグループ A の人たちはグループ A という属性だけで判断されてしまい、個々人の持つ個性に焦点が当たらなくなる。そのような個性的差異は、むしろ多様性の根幹をなす重要な要素であると考える。そのため、グルーピングによる個性の捨象が多様性に与える影響は注意深く検討されなければならない。ただし、私はグルーピングと多様性が本質的に対立的な関係にあるということを主張したいわけではない。上で例にとった言説は、コミュニティのシステム(管理者)側から発せられた言説であることを想定しており、私が批判したいのはシステム側によって恣意的に行われるグルーピングである。逆に過小評価グループに属している(と自らが認識している)個々人がグループを形成してシステムに対してそのグループの社会参画における結果平等を求めることは批判され得ない。なぜならば、過小評価グループに属していることを個々人が自らのアイデンティティの一部として捉えている限りでは、グループを形成することによって個性が捨象されるわけではないからである2

 反駁すべき2つ目の観点として、上述の言説の背後には「淘汰的な想定」が潜んでいるという点を挙げたい。いま、コミュニティの多数がグループ A に属しており、グループ A’ を構成員として取り入れるとする。仮にその目的がグループ A の持つ価値観とグループ A’ の持つ価値観のうち何らかの基準においてより優れているものを選抜したいということであるとすると、双方の価値観の優劣が決定した時点で劣後した価値観は無用の長物になってしまい、コミュニティから排除されてしまう。このような「淘汰的な想定」を持ってコミュニティ構成の多様性を高めても、一見多様性が促進されたように見えて、実はむしろ逆進的であるとすら言える。これは特に現代の学力至上的なメリトクラシー社会においては大きな懸念になっている。メリトクラシー社会に対する大きな批判のひとつは、それが機会平等的であったとしても決して結果平等的でないという点だ。この批判は、結局資本を持つ上流階級がメリトクラシー社会においては次の世代でも再び上流社会に滞留し、そうでない階級は資本を持たないがゆえに現状の階級に留まらざるを得ず、階級間格差の再生産装置になっている、という論調でなされることが多いように思う。私はこの点にもう一歩踏み込みたい。仮に非上流階級が偶然十分な資本を手にし、メリトクラシー社会において上流階級に組み込まれたとする。しかし残念なことに、メリトクラシー社会では能力が高ければ高いほど評価され、能力が低いと評価されてしまうと淘汰されてしまう。その結果残った個人・グループ、そして彼らに付帯する価値観は、「能力が高いと評価されやすい」という単一の判断基準で評価された価値観であり、決して多様であるとは言えない。この2つ目の観点を言い換えれば、システムが価値観に対して単一の何らかの判断基準を措定している限りは多様性は促進されずむしろ疎外的である、と言える。

 したがって、最初に挙げた言説は多様性を全く促進するものではないどころか、画一性を促進してしまうものですらあるわけである。しかし、これまで見てきたように、ここには重要な示唆が含まれていた。多様性の必要条件として、個性が捨象されないことと、単一の判断基準で優劣がつかないことを、少なくとも要請すべきであるという点だ。システムが十分に多種多様な判断基準を持っているとすると、構成員はある判断基準 X で仮に劣後したとしても、別の判断基準 X’ では優れているといった状況があり得るかもしれない。いや、構成員がそれぞれ少なくとも何らかの判断基準では認められるようなシステム設計が望まれていると言えるだろう。これはあらゆる人的、社会的リソースが非常に限られており切迫している現代社会ではなおのこと重要だろう。競争のフィールドがひとつしかないとする(資本主義などはその最たる例だろう)と、全員がその土俵の上で戦わせられてしまうことになるので、ある人はたまたま生存するし、またある人はたまたま適合できない、ということは頻繁に起こる。生存した個人としても、それは個人の個性によって生存したというよりも、偶然その土俵に適した能力を兼ね備えていたからにすぎず、特定の能力・価値観のみの増幅再生産が行われ、そして人間社会全体はより画一的でつまらないものになってしまう。多くの人はコミュニティから疎外されてしまうし、そこには何の驚きと発見もない灰色の世界が広がっている。多様性が目指しているのはそのような社会ではなく、より色鮮やかな、淘汰的でない、人間性が否定されることのない社会であると思う。

 さて、ここでひとつ重要な疑問が残る。「多様性は素晴らしい、それでは多様ではない社会はみなすべからく改革していかなければならない」と思ってしまうかもしれない。しかし、この態度自体が多様性に対して逆行するものであるのだ。この逆説は「相対主義のパラドックス」として知られている。「この世に真理は存在しない」という(相対主義的な)言説が自己矛盾的であるということを端的に表している。前提としてより良い社会を描くだけの意欲と自信がある才能が社会改革に挑戦するのは好ましいことだと思われるが、一方で強い信念と確信はときとしてエゴであったり、強烈な宗教性を伴ったカルトに陥ってしまう危険性と隣合わせでもある。ここで私は、今西錦司の唱える「棲み分け理論」に基づく今西的進化論が事態を打開する鍵となるのではないかと考える。ダーウィン的進化論を反駁する形で、今西は種社会が階層構造をなして各々が棲み分け、決して互いに淘汰的でない共存的世界観を提唱した。ここでも、多様性を標榜する主義自体がひとつの相対的な主義として、他の主義と共存的に存在するという立場を取るのが良いのではないかと思う。しかし、そうなったときに我々がここまで論じてきた多様性がどのように変容するのかに関してはもう一歩進んだ考察が必要であるように思われる。


  1. 逸脱するが、「対象の個性的差異を無視して残った抽象的対象を観察する」というのは、まさにスタンダードな自然科学的観点である。リッケルト『文化科学と自然科学』参照。 ↩︎

  2. ただし、ここでは自由意志の存在を仮定して議論している点に注意されたい。仮に自由意志が存在しないとすれば、ある個人がグループに属しているという個人の認識自体もシステムの所与であるとせざるを得ず、そのときはグループへの所属によって個性が捨象されるかどうかを判断して責任を持つ主体が欠如してしまう。 ↩︎