読書録・2022年10月


ハンナ・アレント著・中山元訳『責任と判断』(ちくま学芸文庫)

 ヒトラー体制において、「尊敬すべき」社会の人々が、道徳的には完全に崩壊したという事実が教えてくれたのは、こうした状況においては、価値を大切にして、道徳的な規格や基準を固持する人々は信頼できないということでした。わたしたちはいまでは、道徳的な規格や基準は一夜にして変わること、そして一夜にして変動が生じた後は、何かを固持するという習慣だけが残されるのだということを学んでいます。 (73ページ; 9月24日)

アレントが手厳しく行うエリート批判の一節。オルテガに通ずるところも多い。オルテガの批判が細分化された自分の領域に固執し堅持しようとするエリート批判であったのに対して、アレントはある意味でより「低俗」とも言えるエリートの無思考さを糾弾する。こうした着眼点がいわゆるアレント「小物理論」を醸成する。

 しかしわたしが悪しきことをなしてしまうと、この能力が損ねられるのです。犯罪者が決して発見されず、処罰されないためのもっとも安全な方法は、犯罪そのものをすべて忘れて、自分のなしたことについてまったく考えないことです。 (155ページ; 9月28日)

これもアレントの「小物理論」を支える底流のひとつ。前提として触れておくべきことは、ソクラテス以来のギリシア哲学において思考は自分の中に潜む「自身と自己の二人の対話」であると考えられてきたこと。自分自身が知覚、認識、経験したことを自己が批判的に検証することによって、その価値付けを自分の中で行い、記憶として再構築することとなるのが、思考の一端である。しかし、悪をなすと自己批判と向き合わざるを得ず、自己分裂の危機に晒されてしまう。であるから、そもそも分裂を避けるために悪の存在を葬り去る。そうすることによって自己の決定的分裂は避けることができるが、しかし一方で思考の源泉である記憶を喪失してしまうため、思考や経験に対して行ってきた価値付けが権威を失ってしまい、結果として人間性を欠如させてしまうことになる。こうした意味で「凡庸な悪」というのはヒューマニズムに対する大きな反逆であるといえる。

 ニーチェが指摘しているように、意志には他者にたいして権力をふるうことの快楽という要素が加わるのです。このようにニーチェの哲学は、意志を〈力への意志〉と同じものと考えることにおいて成立しています。ニーチェは意志が二つに分裂していることは否定しません。この状態を「肯定と否定の間のゆれ」と呼んでいます。これはすべての意志の行為において快と不快が同時に存在しているという事実ですが、ニーチェは強制され、抵抗するというこの否定的な感情を、意志にとって必要な障害物とみなしています。これなしには、意志は自分の権力を認識できないのです。 (217ページ; 9月30日)

道徳を支える意志の源を考察している文脈。意志というのは自己が自己に対して何かの目的に沿った命令を下すことと素朴には考えることができるが、しかしその定義の下では意志する主体としての自己に対して行為する主体としての自己が隷属している状態に陥ってしまい、自由と隷属の矛盾という難題に直面してしまう。これを解決するためにアレントが参照しているのが、ニーチェによって持ち出された「快楽主義」である。つまり、ここでは意志はただ単に命令としての領分以上に、命令対象に対して権力をふるう際の快楽に着目するのである。自由と隷属のパラダイムとはパラレルに、人間に内在する快楽至上性に着目すると、そもそも何らかの苦痛が存在してそれが解消されるときに快楽が生じる、かつ人間は快楽を求める本性を持つものとして措定する。意志することは自己を命令主体に対して隷属させるという、いわば自由の欠如という観点での苦痛であるといえるが、同時に命令内容を実行することができれば隷属から解放される、そこに自由の回復という快楽が存在しているから、意志による行為へと進むことができるといえる。

ただし、この自由観はあくまで西洋哲学的な色合いが強いことには留意したい。つまり、隷属と隷属からの解放を前提としない、存在それ自体としての自由とは一線を画す概念であることには注意したい。

 ある集団に帰属するということは、同じ領域のほかの集団を差別することで、その集団の一員として識別されねばならないということである。 (377ページ; 10月5日)

そもそも社会や共同体というものが、何かの旗印のもとに人が集まった集団であって、その旗印の名目をもって共同体内外を区別するというものであるからして、その本質は差別的であると言える。現代社会において多層的な差別構造を廃するというのは言うまでもなく至上命題のひとつであるわけだが、同時に差別の消滅というのは場合によっては共同体のアイデンティティにも直接関わる問題となることがある。そのため、その解消は一筋縄ではいかないこともある。

ただし、イスラム共同体ウンマを例にとると、彼らは共同体外の人間に対しても排他的であろうとせず、血縁関係による支配を否定し、外部からでも信仰をもつものは歓迎するという態度をとる(9月の読書録)。これはイスラム的な一元論、つまり共同体内外の線引き、神対人間の二元的世界観をとらず、神というひとつの存在が普遍的に浸透した世界観を持つため、共同体の線引きが極めて曖昧であることに起因するといえる。このような共同体像は翻って我々が目指すところのひとつかもしれない。

 マンフォードは、「進歩とは、みずからの進む道の路面を作りだしながら進むトラクターのようなものだ。このトラクターは永続的な軌跡を残すことがなく、人間的に望ましく、想像可能な終点へと向かって進むこともない」と語っています。「進むことだけが目的」なのですが、それでも「進むこと」に固有の美しさや意義があるからではないのです。進みつづけるのは、動きをとめること、浪費するのをやめること、ますます短い時間にますます多くのものを消費するのをやめること、ある瞬間にこれで十分だと語ること、それはただちに滅亡を招くことだからです。 (473ページ; 10月8日)

20世紀の批評家ルイス・マンフォードが語った消費社会、進歩主義に対する警句。根底にあるのは帝国主義、資本主義の成功が誘導する信仰。一歩立ち止まって「進むこと」それ自体が自己目的化している虚無性を見つめ直す必要があるのではないか。あるいは、「進むこと」の意義を問い直したり、ときには「進まない」(あるいは別の道をとって進む)ことを考える必要があるのではないか。

河合隼雄著『夢・神話・物語と日本人』(岩波現代文庫)

 華厳の縁起の見方によれば、盧舎那仏はありとあらゆる現象に現れてくる。しかし明恵は、女性への戒を遵守する。この明恵の選択は神のある側面を拒否することになる。これが明恵の解釈が意味していたことであると考えられる。僧侶は戒律を守らねばならないけれども、そうすることは逆説的に自分の永遠の真理の一部を排除することを意味することになる。その両方を手にする方法はないのである。どこまでもコミットしながらも、そのなかで排他的な選択を行い、それに必然的に伴う暗い側面に気づいていなければならないのである。 (38ページ; 10月17日)

明恵は13世紀の華厳の僧であり、数十年にわたって自身の夢を記録し続け、しかもその記録の半分以上が現在に至るまで残っているという点で驚異的である。ここで取り上げられているのは明恵の夢のひとつであり、盧舎那仏のうつし身である女性が夢の中に現れて明恵を誘うにもかかわらず、明恵は戒律を守ろうとするために、結果的に神を拒絶することになってしまうという文脈である。この悲観的な世界観が、自分にとってはかえって華厳の実直さを感じることができてよかった。多くの宗教が神の絶対性や真理の唯一性を標榜し、それに至ることこそが救済への道標であるとする一方で、このような諦観的な見方は真理に到達することの困難さ、あるいは絶対的真理の存在自体を疑問視することにもつながると言えると思う。その点が自分にはしっくりくる。それと同時に、それでは我々は真理の欠如を目の当たりにしたときにどのような態度を取るのか、その点に関して華厳経の立場からはどのように考えるのかが気になるところではある。禅では我々の即時的知覚が構成する世界と、知覚のフレームを外したときの世界とを行き来することを目指しており、どちらも世界の描像の一面であるという捉え方をする。

 キリスト教においては、絶対的で常に正しい唯一神が中心に立っていて、宇宙を支配している。日本神話のあいまいな性質とは対照的に、善悪の区別は極めて明快である。キリスト教神話において、唯一の中心の神の存在に矛盾する要素は全て、周辺に追いやられてしまうか、完全に抹消されてしまう。それとは全く反対に、日本における中空で均衡のとれた構造では、矛盾する要素でさえ、お互いに均衡さえとれるならば共存できるのである。キリスト教では中心が全ての要素を統合する力を持つのに対して、日本の神話においては、中心は力を持たないのである。 (108ページ; 10月19日)

この点は河合が初めて指摘したらしいのだが、日本神話の大きな特徴のひとつとして、あるひとつの物語のレジーム内に三位一体としての神が現れるというトライアッド構造がある。しかもこれはただのトライアッド構造であるだけでなく「中空構造」、すなわち三体のうち二体は頻繁に登場し、ときには対立することがあるにもかかわらず、残りの一体がほとんど物語中で描写されないという特異的な性質があるそうだ。この理由として河合が取り上げているのが、中空であるがゆえにそれを中心として二体が巡り合うため、対立構造に陥ったとしてもトライアッドであることを保とうとするがゆえに均衡が崩れないということである。これは二元論的であるキリスト教とは大きな違いであり、いかに世界の均衡を保つのかに対するひとつのアイデア足り得るだろう。このアイデアはイスラムの一元論ともまた異なり、ひょっとすると三元論と呼んでもよいのかもしれない。いずれにしてもこれまでに見たことのないアイデアだったので、物事のひとつの捉え方としては面白い。