Webスクラップまとめ(2021年上半期)

週末に時間が取れたので、今年上半期に読んだなかで良かったWeb上の記事、詳説などを一度軽く読み返して簡単にまとめる。


Web特集 私は規則を破ることにした~ 天安門秘録 | NHKニュース

天安門事件、東日本大震災の渦中をくぐり抜けた航空管制官、赤木徹也氏の取材記事。 非常事態においてどのように適切な決断を下すべきなのか、赤木氏の人間性が滲み出るリーダーシップに憧憬する。 天安門事件の切迫した情勢が生き生きと蘇る渡辺記者の筆致も見ものである。

近代数理統計学史 カール・ピアソン | 安藤洋美

記述統計や検定の業績で知られる統計学者ピアソンの科学史的評価。 学生時代から大学の卒業後数年はドイツ民俗学や宗教学に没頭していて、20代の頃には『新ウェルテル』という文学作品を執筆しているというのが面白い。 『新ウェルテル』や後年の大著『科学の文法』において見られる科学観の醸成には、このような青年期の煩悩が欠かせなかったように感じる。 また、『科学の文法』でも見られるようにピアソンは観念論者だったらしい。 自分はどちらかと言えば唯物論を信じているのだと認識しているが、しかし「自然法則は記述方法の創造に依拠しており、その意味で科学は人間なしでは成立し得ない」というピアソンの見方は興味深い。 ほんの1世紀強前にもかかわらず、19世紀後半の科学者の思想は現代のように学問が専門分化しきっていないが故に視座の高さを感じさせられることが多く、このような物の見方を心がけたいと思わせられる。

日本人は「日本モデル」の不合理をわかってない | 東洋経済オンライン

国連事務次長、中満泉氏のインタビュー記事。 「日本的」コミュニケーション文化はグローバル化した国際社会の中ではリーダーシップを発揮するのに不利だと直感しがちだが、むしろ価値観の異なるコミュニティでの意思疎通を測るには日本的なソフトパワーが欠かせないことが多いと語る。 国際機関で勤務する氏が語るからこそ説得力があり、希望を抱くことができる。

The Two Kinds of Moderate | Paul Graham

Lisperで有名なPaul Graham氏のエッセイ。 政治的中道派には「意図した」中道派と「偶然の」中道派があるという話。 前者は左派・右派の主張を見つつ極端にならないように真ん中の路線を取ろうとする一方で、後者は個別政策について自分の信条に従って考えた結果としてたまたまある政策は左寄りに、別の政策は右寄りの意見を持ち、平均すると中道派になる、という区別。 自分にとって良い訓戒だと思ったのでたまに読み返している。

「呉座先生事件」に思うことと、「分断の時代を真剣に超えるオードリー・タンの知恵」が身近な活動家にも理解されていない話について|倉本圭造|note

「保守とリベラルの絶望的対立を乗り越えるには、保守が今時点で担っている社会インフラを引き継ぎつつリベラル改革を行うのが良いのでは?」という結論を、いくつかの例を挙げつつ主張している。 台湾における同性婚の合法化が「結婚不結姻」、つまりパートナー同士の個人的関係を築き(=婚)つつ、家同士の結合(=姻)は行わない形式を取る、というコロンブスの卵で実現されていたというのを知らなかったので面白かった。 米中対立も、アメリカの保守リベラル対立も、傍観しているとこの世の終わりなのではないかという絶望的な気持ちになってしまうけれど、だからこそ直接対立している当事者でない(故に余裕のある)第三者がこういった仲裁を行うことは有望な解決策の一つのように思える。 これは上で触れた中満氏の意見とも噛み合うところである。

研究業績とは何(であるべき)か? | 佐倉統

過当な研究業績競争の現状を論じ、本来非専門家向けであったはずの量的評価が専門家集団内でも無思考に用いられつつあることに対し警鐘を鳴らしている。 研究業績の定量評価を目的とする科学計量学の存在を初めて知った。 実は「共著者数と引用数には正の相関関係がある」らしいのだが、分野間に見られる共著者数の傾向の差を「研究成果における『作品性』の重要度による」と考察している点が興味深い。 「作品性」(ないし「著者性」)は「研究成果が著者個人の理念や考えかたなどに依存する度合い」であるとされ、例えば一般的には人文系や芸術・建築ではこれが高く、自然科学の論文ではデータに基づく客観的な観察と考察が重視される傾向があるためにこれが低く、共著者数の傾向はこれに反比例する。 一概に両者の良し悪しを断ずることはできないが、自分は学問が究極的には個人の哲学に還元されると信じているので「作品性」の向上を目指すべきだと強く思うし、一方で自分の著作をより広い聴衆層に届けるためには「読まれる論文」を書く必要があり、ここにはもどかしいジレンマがある。 これに対するジンテーゼが、まとめで率直に述べられている「ときに自分の意に沿わない形の業績を強いられることもあるかもしれないが、そもそも業績とは大なり小なりそのようなものであると考えることも必要だろう」という文章だと思う。 既存の体制に一石を投じるには従来のシステムから出発するしかない。

情報学は哲学の最前線 | 長尾真

今年突然訃報が入ってきた長尾先生の、2019年のエッセイ。 自分の観測範囲が狭いだけかもしれないのだが、情報分野の研究はプラグマティズム一辺倒に感じられることがしばしばあり(勿論今まで解けなかった問題を解くことを可能にすることには大きな価値があると思う)、このように哲学的課題を全面に押し出した情報分野の研究者はほとんど知らないので、それだけでも尊敬ができる。 第I部は概説的な哲学史なので本当に深く知りたいならこれを目次にしつつ別の文献を当たる必要がある。 第II部は情報学における諸課題を哲学的に考察している。 元々長尾先生は機械翻訳の研究をされていたのもあり、特にII.2「言語を理解するとは」で述べられている知識トポロジーの考察やヴィトゲンシュタインに基づく用例ベースの翻訳あたりが面白い。 思えば数年来の自然言語処理の研究の方向性は分布仮説に基づいて進んできていて、それが実際に大規模言語モデルとして非常に実用に近いレベルで結実しているため、ヴィトゲンシュタインらの思弁はかなり精緻だったと言えるのではないか。 知識トポロジーはまだ仮説の段に過ぎないのだと思うが、そろそろ実証可能な水準に到達しつつあるのではないか。 個人的にはこれがラカンの言う「シニフィエなきシニフィアン」の実証に繋がらないものか、と妄想したりする。

科学コミュニケーション論 | 中串孝志

昨年から科学コミュニケーションに関する文献を浅く読み漁っているが、これが面白かったのはグライスが定式化したコミュニケーションのルールについて触れている点だった。 このルールを科学コミュニケーションに当てはめたときに、いかに一般的な科学者が行おうとしている科学コミュニケーションがコミュニケーションのルールにそぐわないかを指摘していて、これも自分にとってよい訓戒だった。

哲学は客観的か、それとも主観的か|山口尚 | note

まとめると、哲学の問題は言語や思考の枠組みに制約されているので客観的ではないのだが、個人の趣味嗜好といった主観によって答えが左右されるものでもないはずなので、客観的でも主観的でもない第3のカテゴリに属する、ということを主張している。 これは上の長尾先生のエッセイの途中でも少し触れられている「間主観性」とも関係がある。 また上で触れたピアソンの思想に基づいて言うならば、自然科学さえも法則の記述方法には恣意性があるため、純粋に客観的ではないと言える。 こう見てくると真の客観性とは何なのか、という話にもなるし、前提として客観 vs. 主観という二元論ではなくその中間段階を強く意識する必要性を感じる。

政策で科学を加速し、科学で政策を加速する〈アカデミアを離れてみたら〉 | アカデミアを離れてみたら | web岩波

Acadexitした人たちの体験談をまとめたWeb連載で、自分はWeb公開されていたときにほぼ全て読んだのだが、現在は書籍として刊行されたのでWeb公開は停止されている。 どの人の体験も紋切り型でないのでついつい読んでしまうのだが、その中でもこの記事が一番良かった。 この記事の執筆者である高山氏は博士取得後に文科省に入省したという異色な(?)キャリアで、日本のパブリックセクターにおける博士卒の少なさに問題を感じていた当時、ちょうどこの記事が目に留まった。 書籍で改めて読みたい。