アルゼンチン旅行記(後編)


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2024年2月20日(火) El Calafate

エル・カラファテの丘から眺め下ろすアルヘンティノ湖

 エル・チャルテンを後にして、エル・カラファテまで戻ってきた。エル・チャルテンではとどまるところを知らないアンデスの風に吹きさらされるのに慣れてしまっていた。エル・カラファテの街はチャルテンよりは生活感があって、でもパタゴニアのこぢんまりとした小さな街という印象だ。今日は街の西側にあるロス・グラシアレス国立公園を目指す。

 走ること十数分で、あっという間にエル・カラファテの街は見えなくなり、パタゴニアの広漠な自然の中に放り出される。バスで1時間、ロス・グラシアレス国立公園の入口をまずは目指す。右を見れば車窓から薄群青色のアルヘンティノ湖、左を見れば冠雪したアンデスの雄大な山々が見える。

 国立公園の入口を潜ると、いよいよペリト・モレノ氷河に近づく。ペリト・モレノ氷河はアンデスから毎年少しずつ山の斜面を降下しており、アルヘンティノ湖に流入して堰き止められているらしい。このあたりの湖沼の色は全く見慣れない浅葱色のような色を冠していることが多いが、これはアンデス山脈の鉱物由来の色とのことだそうだ。

 国立公園の入口からさらに走り続けること1時間弱、ついにペリト・モレノ氷河が見えてきた。あの向こうはアンデス山脈であり、その山頂から長い時間をかけて降りてきたのがこの氷河というわけだ。見た目に反して実はこの日、摂氏20度ほどである。それに加えて氷河から反射する日光が眩しいのも重なって、体感はそれほど涼しいというわけでもない。にもかかわらず氷河が悠然としているのを見ると不思議な気分だ。

正面展望台から眺めるペリト・モレノ氷河

 バスの中でそば耳を立てていると、どうやら日本人の若者が一人乗り合わせていたようだ。アルゼンチンに来て一週間、初めて日本人に会った。話を聞くと、ペルー、ボリビア、チリ、と南米を2週間かけて回ってきたらしく、最後の一週間をアルゼンチンで過ごすらしい。聞けば自分よりも五歳も年下で、その年齢にしてその行動力を持っているのを羨ましく思う。

氷塊が崩落する瞬間

 ペリト・モレノ氷河は特に夏場のこの時期、気温の高さも相俟って、頻繁に氷塊が崩落する。十数分待ち構えていると、突然轟音が鳴り響いて湖に氷塊がなだれ込む。

漂流する氷塊

 船を乗って氷河に近づく。ここから氷河に登る。

 氷と岩と空と水と。結局こういう、現実離れしているかもしれない、けれども被写体の情報量の少ない光景が好きなのだ。

 先ほどは湖越しに見ていた氷河にどんどん近づいてゆく。そのたびにスケール感に圧倒される。水面より上に見えている氷の高さはおおよそ 80m ほどあるらしい。

クレバスに流れ込む雪解け水

 決して寒いわけではないにもかかわらず氷の上を歩いているので、直感の認識の不一致による混乱が生じてしまう。「氷の砂漠」という表現になるのかもしれない。

 雪解け水をボトルに詰めて喉に流し込む。気温がそれなりに高かったので、冷たい水が体にしみる。

アルゼンチン牛のリブステーキ

 エル・カラファテの街まで帰ってきて、ツアーに一緒に参加していた日本人の若者と二人でステーキ屋に来た。メンドーサのシラーと一緒にいただく。一日結構体力を使って歩き回ったので、肉の旨味とワインがよくしみわたる。このときは旅程にメンドーサを入れなかったことを後悔した。

2024年2月21日(水) El Calafate

 昨日はペリト・モレノ氷河を一日堪能しきったので、特に予定を入れずにエル・カラファテの街をぶらぶら歩くことにした。とりあえずアルヘンティノ湖の方向に向かって歩けばいいかと思ったが、どうやら道を間違えたらしく、人気のない道路の脇をとぼとぼと歩く羽目になった。しかもエル・チャルテンにせよエル・カラファテにせよ、どちらも電波状況が非常に悪いので、マップを検索することもままならない。まあこうして不安を感じながら異国の地を独りで踏みしめるのは、生きている感じがして悪くはない。

 2時間近く放浪し続けて、なんとか正しそうな道に戻ってアルヘンティノ湖のほとりまで辿り着けた。湖岸で腰をおろして、時間を忘れて水面を見つめたり、カフカを読んだりしていた。

ミレーの絵画の題材にあってもおかしくなさそうな Nimez Lagoon(ニメス湖)

 再び湖岸を歩きだして、ニメス湖までやってきた。国立公園に入ろうとしたのだが、持ち合わせていたアルゼンチン・ペソを綺麗に切らしてしまって入ることができなかった。仕方ないので外から眺めながら湖畔を歩いていたら、突然「日本人ですか?」という日本語が聞こえてきた。驚いて振り返ると日本人の女の子がいた。聞くところによると、高校を卒業してからカンボジアに入り浸ってストリートアートで小金を稼ぎながら、いろいろなところを放浪しているらしい。アルゼンチンに来たのも、カンボジアで知り合った友人と現地で落ち合って旅行をするためで、友人が来る前に先に到着してしまったので、なんとなく湖を眺めながら絵を描いていたらしい。自分の知らない世界すぎて唖然とする。なんでカンボジアにそこまで興味を持つようになったのか、普段どんな絵を描いているのか、他愛もない話をしながら湖畔でしばらく日向ぼっこをしていた。南米まで好き好んで来るような人たちは酔狂なのだろう。

2024年2月22日(木) Ushuaia

エル・カラファテからウシュアイアへ

 5日ほど滞在したエル・カラファテ、エル・チャルテンをついに後にし、ウシュアイアへ向かう。濃密な時間だっただけに名残惜しい。エル・カラファテ空港からは1時間ほどのフライトだ。

 ウシュアイアに着いた。ここはもう南緯55度。中学生の頃に地図帳を食い入るように見ていたときに目に入った南米の南端にある「フエゴ島」という名前、漠然としたエキゾチックな響きと南米の最南端という、日本のメルカトル図法の地図では右下の端にわずかに示されている最果ての島、理由もないけどとにかくいつか行ってみたかった。最早ここに来れたというだけで嬉しさが込み上げてくる。

 南緯55度ともなると、時期としては真夏であるにもかかわらず、日中最高気温もせいぜい5、6度しかない。京都の冬とさほど変わらない寒さだ。ウシュアイアの街はコンパクトにまとまっていて、カフェやバーが所狭しと軒を連ねる。海が近いのもあって魚介類の質がとても高い。日本の魚介類と比べても遜色ないような美味しい海鮮リゾットや海老の煮込みスープが食べられる。

アルゼンチンの国民的お菓子である alfajores(アルファホーレス)

 街を歩きながらふらっとカフェに入ってアルファホーレスを食べた。ココナッツパウダーがスパイスになっていてコーヒーによく調和している。

2024年2月23日(金) Ushuaia

 朝起きて、ゆっくりとウシュアイアの街を歩いて回る。海岸からすぐに急勾配が続く斜面の上にできた小さな街なので、丘の上から見下ろすとパースが良く効いた風景になる。向こうに見えるはチリのナバリノ島、そしてその向こうはもう南極なのだ。

 本当はマルティージョ島に船で行く予定だったが、風が強かったので急遽ティエラ・デル・フエゴ国立公園へ来ることにした。ナバリノ島を向こうに、ビーグル水道を眺める。ティエラ・デル・フエゴ国立公園は、アラスカから約 18,000km 続くパン・アメリカン・ハイウェイの終点になっている。その意味でも真に最果ての地ということになる。

ティエラ・デル・フエゴ国立公園から見えるフエゴ島の山肌

カラファテの実

2024年2月24日(土) Ushuaia

 昨日のリベンジで、もう一度ビーグル水道に船で出る。時間の関係でもうマルティージョ島までは行けないけれど、あのウォン・カーウァイの劇中で出た最果ての灯台を拝むべく。

 そう、ここがあの灯台だ。ナバリノ島の大地を背景にして佇む灯台の姿はとても立派だ。自分が劇中で見た、まさにあのシーンを、この現実世界で、そして地球の裏側からやってきてこの目に焼き付ける。わざわざこれだけのために、だけどこれがしたくてたまらなくなって、最南端の地までやってきた。

 ビーグル水道に浮かぶ小島に上がり、少し歩いて回る。片方を見ればその向こうが太平洋、反対を眺めれば大西洋。世界の中でも太平洋と大西洋を同時に目にできる場所はほとんどない。わずかに生える苔と火山由来の岩肌が、全く見慣れない光景を生み出している。最果ての土地を演出している。

 船を2時間ほどウシュアイアの港から走らせ、最後にたどり着くのはエスタードス島。ジュール・ヴェルヌの小説にも登場する、ビーグル水道の灯台だ。日本からまともに考えれば直線距離で最も遠い場所と言っても過言ではないだろう。およそ10日かけてここまで辿り着いたという達成感はひとしおである。

 ウシュアイア、観光地化されていて最果て感が薄れているという批判は真っ当ではあるが、それを凌ぐ壮大な自然のスケールに圧倒される。独特の時間が流れている感覚がある。3日いたが、街並みも可愛らしく、食べ物も美味しく、明日にはここを発たなければならないと思うと名残惜しい。もう人生で再びくることはあるのだろうか。

2024年2月25日(日) Buenos Aires

 1週間にわたるパタゴニアの放浪を経て、名残惜しくもブエノスアイレスに帰ってきた。もう帰国までほとんど時間がないのだが、やり残したことがある。ウォン・カーウァイのロケ地をまだちゃんと回りきれていないのだ。

ニコラス橋

 まずはニコラス橋へ。ここはウィンの下宿のほど近い場所にあり、劇中でもたびたびファイとの関係がうまくいかなくなったときにこの橋を無意味に歩くシーンがあり、印象深い場所の一つである。

ニコラス橋の歩道橋

 せっかくなので歩道橋まで上がって歩いてみる。無骨な鉄橋が、逆に人間と人間が交わることなくすれ違う不器用さ、その情景を描き出せていると思う。絶妙に対岸が見えず、先行きの見えなさが感じられるのも良い(そもそもニコラス橋周辺は Boca 地区であり、前提としてブエノスアイレス市内では治安はお世辞にも良くないというのも相俟ってである)。

 余談だが、ニコラス橋の入口でスペイン語で必死に「お前日本人だろ?あっちの方向(Boca 地区を指さしながら)には絶対に行くな、財布盗られるから」と言われた(気がする)。なんだかんだで言葉がわからなくても雰囲気で伝わるし、やはりアルゼンチン人は総じて親切だと思う。

 もう一つ、ボルヘスの作中で度々登場するコンスティトゥシオン広場も見ておきたかった。これでひとまず思い残すことはないだろう。

オベリスク

2024年2月26日(月) Buenos Aires

 こうして現地12日間のアルゼンチン放浪旅は幕を閉じることになった。ありきたりな感想ではあるが、地球の裏側、日本から 20,000km 離れたここ南米大陸にも人が生活をしていて、文化と歴史を刻んでいるという事実に、ただ世界の広さを実感する他なかった。元々スペイン、イタリア系の入植者が多いアルゼンチンではあるが、西欧、南欧とは言うまでもなく異なる過酷な自然環境が広がっているがゆえに、彼らの文化と現地の自然が交わる場所で新しい独自の建築、芸術様式が成立している。なかなか日本から距離が遠いだけに普段は全く知る機会のない大地であるから、この目で、肌で、感じ取って帰ってこれたのは何よりの経験だ。

 人生でまた来ることはあるのだろうか。自分は仕事柄上、南米大陸に仕事で用事があることはなかなかなさそうだから、なおのこと機会は限られてしまいそうである。しかし往復2日の移動距離をかけてまで、その大陸に人々の生活が根付いていることを目の当たりにするという事自体に大きな価値があると思う。あわよくば再訪したいものである。