自由と、学術のあるべき姿の関係
先週末の記事で、「自由」について感ずるところを取り留めもなく述べてみた。 まだ語り足りなかったことがあるのだが、その中でも自分にとって喫緊である、「自由」とアカデミアの関係について最近人と議論したり自分で考えたりしたことを残しておきたいと思う。
二度の世界大戦を経て帝国主義時代は一応の終わりを告げつつあり、21世紀に突入し旧来の先進国を含めとりわけ日本では低成長社会が続いており、その中で科学1と社会の関係性が問われなおされている。敢えて述べ直すまでもなく、社会からは「役に立つ」学問が要請され、その社会的価値を証明できない研究や学問分野は淘汰されていく。某所では文系学部の再編なんてことまで取り沙汰されている。これは「社会からの要請」によって「研究者個人の内発的好奇心に基づく研究の方向性」が阻害されている意味での「不自由」であることを結論づけることは難くない。
そもそも歴史的に学問と社会の関係性はどのようにあったのか2。「科学者」という概念が職業として認知されるようになってきたのは1840年代頃とされていて、それ以前は16世紀・17世紀は絶対君主が道楽で研究者のパトロンをしていた3時代であり、その後18世紀にはアカデミーが結成され、学者たちの自律が行われつつあった。18世紀頃のアカデミー時代はおそらく歴史を振り返っても学者が最も学問の「自由」を謳歌していた時代であり、学問の黄金期と呼んでもよいかもしれない。学者たちは本業で稼いだ余剰資産をつぎ込んで研究したりだとか、他にはファラデーに代表されるような講演の名手が市民講演4で稼いだりして、研究資金を賄っていたらしい。その後19世紀以降は我々がよく知るところであり、国威発揚・富国強兵を掲げながら科学技術は国家の生産力向上と軍備拡張のために用いられるように5なり、公益への貢献が強く求められるようになってきた。この流れは世界大戦が終わって現代にいたるまでなお続く。
なぜ現代社会では学問は「自由」たり得ていないのか。19世紀以降の学問が公益的なものとして制度化され、皮肉にも「科学者」「研究者」の職業認知がそれ即ち学問が資本主義システムに組み込まれたことに他ならないため、学問が資本主義に隷属するようになった。公益性と資本主義の両立困難性は多くの人間が認知するところであったからこそ、国家がある程度共益的になるように研究費を配分することを行ってきたわけであるが、そもそも現代民主主義においては国家の主権者は国民であり、その国民が資本主義システムに晒されている以上、根本的には資本主義の檻から抜け出すことは非常に困難だ。
さて、ここでは資本主義への隷属とは別の、もう一つの学問の「不自由」性を取り上げたい。それは一言で言えば「アカデミズム」である。アカデミズムをまず辞書で引いておく6。
学問研究や芸術活動において伝統的秩序や権威を尊重し、研究や創作活動の純粋性、正統性を保持しようとする精神的傾向あるいは行動様式を包括的に意味する。
一般的な研究活動でいえば、まず先行研究をサーベイし、そこに孕んでいる未解決な問題を見出して解く、あるいは見過ごされていた問題点を見出して新たな視点として提示する、そして先行研究へのリスペクトを含めて引用し、学術論文として出版する。この一連の流れがある意味ではアカデミズム的である。すなわち、過去の研究の流れを尊重し、そこに新たな貢献を提示し、伝統性を担保しながら人類知の先端を切り拓いていくのである。これは先日読んだ苫野一徳の「勉強するのは何のため?」において触れられている「哲学は『思考のリレー』」という言葉に非常に端的に現れている。また、アートに携わっている長年の友人がいるのだが、彼曰く「現代アートとは『わけのわからない・突拍子もない』芸術のことではなく、従来のアーティストがアートを通じて提示してきた社会へのメッセージに対して自分なりの新たなメッセージを表現するもの」らしく、社会的メッセージに欠くものはアートと呼ぶには足りないという。ここにも「リレー性」が見て取れると思う。
ここで主張したいのは、この「リレー性」が時には学問(勿論アートを含めても良い)の「自由性」を束縛するものではないか、という点である。また一つ例を挙げたいと思う。計算機科学ではより精度が高く高速なアルゴリズムを追求することが目標の一つであるが、例えば行列乗算のアルゴリズムは素朴に実装すればO(n3)の計算量になるが、このnの指数を改善して高速化することができ、1970年以降年々改善されている様子がWikipediaに掲載されている図からも見て取れる7。さて、こうした研究は言うまでもなく「行列乗算」というフレームワークが既にあり、これを高速化するというのがある意味で分野の至上命題になっており、研究者は創意工夫を凝らして日々改善を行っているわけである。このコミュニティにいる研究者であれば、この計算量オーダーの指数が改善されることに意義があることはア・プリオリに認められると考えているだろう。しかし、この「リレー」は、見方によっては個々の研究者が過去の研究者によって提示されたフレームワークの中で束縛されている、ということも可能である。また、ラディカルに批判を加えるとすれば、指数が2.4から2.38になったところで実用的に果たしてどれくらい意味があるのか、それは「役に立つのか」ということが指摘されかねない。アルゴリズム研究者が見ていたとすると気分を害される可能性が大きいのでここで予め断っておくと、僕自身はこういった研究は面白くて自分の好奇心は満たしてくれるものであると感じていることを先に述べておく。
学問の「リレー性」によって一見研究者が束縛されているように見えることに関しては、僕自身はそこまで否定的でなかったのだが、ある研究者の友人と議論していると、彼はこうした現状に非常に閉塞感を感じるという。この閉塞感は理解ができる。そもそも人類がなぜ学問をはじめたのかといえば、様々なルーツを挙げることは可能であろうが、その中で大きな一つが人類の根源を理解し人がより人らしく生きられるようにする、「ヒューマニズムの高揚」が挙げられるだろう(無論西洋哲学的なルーツに偏重していることは否定しない)。そのような学問の出自にもかかわらず、自らの伝統性に現代の我々が縛られれているのだとすれば、それは非常に逆説的な現状であると言わざるを得ない。
ここまでをまとめると、学問の「不自由性」に関して、以下の二つの観点を挙げた。
- 現代社会において学問は資本主義システムに縛られている(= 「役に立つ」ことが求められる)。
- 学問は伝統性によってその方向性が縛られている。
前者は資本主義社会における学問の価値を担保する観点であり、後者はアカデミアにおける学問の価値を担保する観点である。この二つの観点は直交的なものであり、「役に立ち、かつ伝統性を継承する」「役に立たないが、伝統性を継承する」「役に立つが、伝統性を継承しない」「役に立たないし、伝統性も継承しない」の四パターンが有り得る。役に立ち、かつ伝統性を継承する研究であればある意味で社会的には最高であり、役に立たないし、伝統性も継承しない研究は最悪である、と言えるかもしれない。 学問とは「役に立た」なければいけないし、伝統も継承しなければならないとすれば、それはなんと窮屈なものだろう。しかし、果たして学問は本当にそのように字義通り窮屈なものなのだろうか。あるいは「自由性」を欠く世界なのだろうか。
僕の考えは以下の通りである。まず第一に、あらゆる学問は「役に立つ」。その学問を研究している人間がいるということは、少なくとも研究している当人にとっては好奇心を掻き立て、自分の人生の大きな部分を投入しても構わないと思えるほどの価値があるということに他ならない。研究している当人にとっては必ず「役に立つ」ものであり、その研究が誰かの病気を治すことに繋がるのかもしれないし、環境問題を解決するものかもしれないし、国際紛争における交渉を助くる新たな法解釈を与えるものかもしれないし、はたまた全くそうした実利とは別に純粋に研究者当人の好奇心を満たすものなのかもしれない。実利があるのならなおさら「役に立つ」わけだし、当人の好奇心を満たすものであればそれはエンターテイメントであり「役に立つ」。きっと他にも同好の士がいるに違いないだろうから、エンタメとして開拓することに意義がある。勿論資本主義社会の現実的な制約の下では、仮に国家予算で研究費を全て賄うとしたら、国内の課題で優先順位付けして優先度の高いものから予算付けしていくしかないだろうが、そこで溢れてしまった学問は決して「役に立たない」わけではない。同好の士がいる限り、資本主義システムの上に載せることは可能であろうし、またその学問が好奇心を掻き立てるものであれば、より広い人にその面白さを知ってもらうことで人生を充実させられるのではないだろうか8。これは全くもってエンターテイメントと同じ考え方なのではないかと思う。いずれにしても、そこに好奇心が存在している限り、何らかの意味で学問は「役に立つ」ものである。
また第二に、学問がアカデミズムによって縛られているのではないかという点に関して述べるとすれば、僕は真の意味での「自由」は存在しないと考える。ここでの「自由」とは「媒介論的自由」である9。すなわち、人間のあらゆる自由意志的な行為は、必ず何らかの環境的な作用や他者の意志によって阻害ないし支配されるものである、と考える。そもそも言うまでもなく我々の思考の枠組みは我々の受けた教育によって支配されている。親や友人の価値観に支配されている。よしんば他者の価値観に反抗したとしても、その際の自分の意志や価値観は反抗した他者の価値観に対する否定として規定されるものであり、間接的に他者の価値観に支配されているものである。であるならば、学問においても過去の研究者が考えた枠組みから完全に「自由」になるということはほとんど不可能である。それは人間社会に生きる以上、逃れられない定めである。どのような学問であれども、多かれ少なかれ他者の影響は受けるものだ。蓋し学問に関していえば他者から多くの影響を受けているものは研究者当人の貢献が少ないと言えるのかもしれない。しかしそこに関しては、一見他者からの影響が少なく当人の思考の貢献が大きいように見えたとしても、個人の思考の貢献がどれくらいその当人に寄与するものなのかは一度疑ってかかったほうが良い。我々の思考の枠組みは想像以上に借り物でできているに相違ない。
畢竟するに、学問に携わる者である以上、社会や他者に対して積極的に働きかけることで学問自身の価値を不断に高めていくべきであるし、また自分自身の思考は先人に負うところが大きいことを常に意識する必要があると僕は考える。僕がこうして考えていることでさえも、周囲の人間の考えを反映しているものであり、それらがあって初めて規定可能なものであることに違いない。そしてこれが「自由」でないのかといえば、媒介論的な意味では「自由」ではないのかもしれないが、僕は鈴木大拙が言う意味では「自由」なのだと思う。曰く、
自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「自ら(みずから)」または「自ら(おのずから)」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく、自ら出るままの働き、これを自由というのである。
と。鈴木は仏教語である「自由」は西洋の “freedom” とは元来無関係な概念であったと言うが、それもそのはずで、“freedom” とは “free” 性、すなわち他者の阻害から解放される(= free)ことであるから、概念としては明らかに異なると言えるだろう。
先人が築き上げたバベルの塔を見て内発的に生じる好奇心、自分を没入させても後悔はない、自分の好奇心に嘘をつかないためには、自分が自分らしく生きるためには、この塔を自分が引き継いで築き上げるしかない。そんなところに「自由」があるのではないか。僕はそう思っている。
最後に、触れられる折がなかったのでここになってしまったが、なぜ学問は伝統性を継承する必要があるのか、という点に関して少しだけ述べておきたい。そこまで大した話ではないが、僕が考えるには単純に「コミュニケーション」の問題である。完全に伝統性・継承性を欠いた学問もとい思考というのは、他者にとって理解可能な形ではないのである。あまりにも奇抜な考えというのはときに社会に馴染むものではなく、宙に浮いてしまう。人類には早すぎた天才ラマヌジャンが数学者ハーディという霊媒師を味方につけられたのは幸いなことであるが、常人にとっては他者と思考の枠組みを共有しながら生きるしかないのである。この共有こそが、一種の伝統性だと考える。
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「科学」と社会の対比を持ち出すことは、所謂文系学問を疎外することになるので、僕自身は基本的には好まないのだが、この文脈では世界大戦期・冷戦期の科学技術による国威発揚を念頭に置いているので、「科学」という語を据え置くことにする。 ↩︎
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このあたりの議論は藤垣「科学者の社会的責任」などを参照。僕自身は東大の佐倉統先生の講義や、佐倉先生との個人的な雑談を通じて、このあたりの話に関してはかなり勉強させてもらった。 ↩︎
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例えば16世紀初頭であれば、メディチ家がダ・ヴィンチをはじめとした多くのイタリアの学者のパトロンとなっていた。 ↩︎
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ファラデーも行った英国王立研究所の「クリスマス・レクチャー」は、1825年から現在に至るまで続いている。 ↩︎
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こう書くと一見所謂理系学問のみが生産力・軍拡に関係するようにも見えるが、文系学問も例外ではない。たとえばドイツ観念論の巨人ヘーゲルはその思想がプロイセンの政策と一致し、ベルリン大学総長に抜擢された。 ↩︎
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2020年時点ではO(n2.3728596)のアルゴリズムが提案されているらしい。指数の下限は2であることは自明だが、2より大きいかどうかはまだわかっていないらしい。「2.3728596」という数字がどうやって出てくるのか、僕は皆目検討もつかない。 ↩︎
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以下は個人的なメモに過ぎない: みんながみんな、自分の好奇心を社会に対して提示するようになった社会を想像すると、個人的には空恐ろしさを感じる。もし資本主義システムの下に生きるのであれば、自分の好奇心に対して資本という形でスコアリングを高める必要があるため、有限のパイ(これは時には資本だし、時には時空間的なリソースでもある)を奪い合う形になる。資本主義は本質的に有限性の下から競争を生じさせるものであるので、この方向性は他者の否定に繋がりかねず、非常に生きづらく恐ろしい社会だ。だからといって資本主義を打倒するのが良いとも素直に思うことはできない。結局のところ、社会全体でこの「囚人のジレンマ」の檻から一斉に抜け出す以外に良い解決策が思いつかない。おそらくこんなことを無意識的に考えていたのか、だからこそ僕は近頃他分野の研究やエンターテイメント、社会活動など、他者の表現になんとなく興味が出ている気がする。自分の思考の糧になるから、という功利的な考えもきっとあるのだと思うのだが、どこかでこの囚人のジレンマから抜け出せないのかと考える一面もある気がする。 ↩︎